第八話 追加契約と銀貨十四枚
細い雨は止む気配を見せないまま灰色の空から降り続いており、崩れかけた街道には水を吸った泥が重たく広がっているせいで、踏み込むたび靴底がゆっくり沈み込んでは嫌な音を立てていた
横転した荷車は片輪を完全に砕かれた状態で斜めに傾き、その荷台から投げ出された木箱が周囲へ散乱しているのだが、それらは盗賊に荒らされたというより、積みすぎた重量に街道そのものが耐え切れず、無理やり崩されたような印象を与えていた
泥へ半ば埋もれている縄は雨水を吸って黒く変色しており、箱を固定していた金具は千切れたまま濡れた地面へ転がっているのだから、恐らく荷車が横転した瞬間、積荷ごと一気に投げ出されたということなのだろう
荷車のすぐ横では、一頭の岩馬が苦しそうな呼吸を繰り返していた
馬に似た大型獣ではあるが、街道用に品種改良された岩馬は肩の高さも脚の太さも普通の馬とは比べ物にならず、その巨体を支えるための筋肉が濡れた灰色の毛並みの下で重たく浮かび上がっている
ただ、その岩馬は脚を折っている様子こそないものの、長時間無理やり荷を引かされたせいで完全に力を使い果たしているらしく、泥へ身体を預けたまま白い息だけをゆっくり吐き続けていた
そして、その少し先。
濡れた外套を纏った女が、壊れた荷車を見つめたまま動けずにいる
右脚を不自然に庇っていることから、おそらく横転した際に荷台へ巻き込まれたのだろうが、それ以上に目立っているのは“全部終わった”と理解してしまった人間特有の虚ろな表情だった
「……契約を手伝う?」
掠れた声だった
それは驚きというより、もはや状況を立て直せる可能性そのものを想定していなかった人間が、理解出来ないものを見た時の反応に近い
レインは泥へ沈んだ木箱を持ち上げながら、小さく頷いた
「可能です」
あまりにも自然に言うものだから、ミナは逆に呆れた顔をしていた
普通なら諦める
荷車は壊れ、岩馬は潰れ、納期も今日の日没までしか残されていないのだから、この依頼は既に“失敗した仕事”として扱われる段階へ入っているはずだった
だがレインだけは違う
砕けた車輪の状態を見て、泥の深さを確認し、散乱した積荷を順番に持ち上げながら、その頭の中では既に“どうすれば契約を成立させられるか”の計算が始まっている
女は痛む脚を押さえながらレインを見上げた
「……無理だ 荷車が終わってる」
「全部を運ぶ必要はありません」
レインは木箱の側面を順番に確認していく
赤い刻印が入っている箱と、黒い印だけの箱があることから、契約には優先納品指定が存在しているのだろうとすぐ理解したらしい
「優先契約箱がありますね」
女の目が少しだけ開く
「……分かるのか」
「工房系の契約ではよくあります」
赤印の箱は三つだった
残りは黒印のみで、封印強度も少し弱い
つまり、赤印側が本契約で、黒印側は予備部品か交換用ということなのだろう
レインはそこまで確認した上で、ようやく顔を上げた
「赤印だけなら、こちらの荷車へ積み替えても重量は耐えられます」
ミナが横で苦笑する
「こういう細かい契約の穴見つけるの、本当に得意なんだよなコイツ」
「穴ではなく条件確認です」
「言い方変えても同じだろ」
女はしばらく黙っていた
雨音だけが続く
崩れた街道も、泥へ沈んだ荷車も、さっきまでの彼女には“全部終わった証拠”にしか見えていなかったのだろう
それなのに、目の前の男はそこからまだ利益と成立条件を探している
「……なんでそこまで出来るんだ」
小さく漏れた声へ、レインは少し考えるような顔をしたあと静かに答えた
「失敗した時、どこまでなら切り捨てても損失を減らせるかを考える癖があるので」
「普通は成功考えるだろ……」
ミナが呆れる
だが、それがレインだった
戦闘は弱い
矢への反応も遅い
けれど、どこが崩れて、どこならまだ残せるのかを読むことだけは異様に上手い
だから生き残ってきた
レインは砕けた車輪へ触れる
木材は完全に割れていることから修理は不可能だろうが、荷車本体の骨組みはまだ使えるため、重量さえ減らせば最低限の牽引は出来るという判断なのだろう
「追加契約料を貰います」
女が顔を上げる
「……いくら」
「成功報酬の三割です」
「高いな……」
「こちらも街道リスクを負います」
レインは淡々としていた
そこへ遠慮はない
だが逆に、その迷いの無さが女には少しだけ安心出来た
少なくとも、この男は同情だけで動いていない
利益があるから助ける
だから最後まで計算する
その方が、この街道では信用出来る
女はゆっくり息を吐いた
「……分かった 払う」
「契約成立ですね」
レインが荷台へ手をかざす
青白い光が雨の中で広がり、追加契約式が静かに組み上がっていく
報酬割合と荷移送権限、それに優先納品義務が魔法陣へ刻まれていく様子は、どこか魔法というより帳簿仕事の延長みたいだった
女はその光を見つめながら、小さく笑う
「……運び屋って、もっと力仕事だけかと思ってた」
「泥仕事ではあります」
ミナが肩を竦める
「ただコイツだけ、数字の匂いが強いんだよ」
契約が終わると、レインはすぐ積荷の移動を始めた
鉱石箱を奥へ寄せ、空いた場所へ赤印の箱を積み直していく動きには迷いがなく、どの順番なら荷重が偏らないかまで既に頭の中で計算されているのだろう
その横で、倒れていた岩馬が低く唸る
灰色の巨体は泥まみれだったが、瞳の奥にはまだ力が残っている
レインは静かに近付き、首輪の状態を確認した
革紐は切れているものの、完全に千切れてはいない
つまり繋ぎ直せば使える
ミナはその顔を見た瞬間、嫌そうに眉を寄せた
「……また何か考えてるだろ」
「この岩馬、売れますね」
「やっぱりかよ」
レインは岩馬の脚を確認しながら続ける
「骨折ではありません 疲労と脱水です」
つまり休ませれば回復するということなのだろう
ミナは呆れた顔で空を見上げた
「アンタほんと、金になる匂いだけは見逃さねぇな……」
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