第六話 帰路の荷車と銀貨十四枚
翌朝
北側宿場には、まだ昨夜の雨が残っていた
空は薄い灰色の雲に覆われ、朝日もどこか鈍い 濡れた石畳には細い水溜まりが連なり、荷車が通るたび茶色い泥水が跳ねていた
宿場の通りでは、朝早くから人が動いている
桶を抱えた宿員 荷を背負った運び屋 眠そうな顔で店を開ける商人
湿った空気の中へ、藁と泥、それに煮込みの匂いが混ざって流れていた
ミナは宿の裏手、木柵へ背を預けながらゆっくり右腕を回す
「……ほんとに治ってる」
包帯の下にはまだ鈍い熱が残っている だが昨日までの、骨へ響くような痛みはかなり薄れていた
拳を握る 開く
問題なく動く
銀貨十枚
その価値を、ミナは冒険者時代から知っていた
青晶級の治癒魔法薬
普通の冒険者なら、大怪我でもない限りまず買わない いや、買えない
それを、あの男は“効率”の一言で使った
「おはようございます」
振り返ると、レインが帳簿を開いたまま立っていた
朝の薄い光が、帳簿の数字を白く照らしている
「朝からそれかよ……」
「朝だからです」
レインは顔も上げず答える
「宿場は朝に情報が集まります 出発する商人、止まった荷車、不足物資 全部この時間です」
「うわぁ、仕事人間……」
ミナが呆れながら欠伸をする
その時
宿場の中央通りから怒鳴り声が響いた
「誰か王都へ戻る運び屋いねぇか!?」
レインの視線が即座に動く
まるで金の音に反応したみたいだった
ミナが思わず笑う
「早っ」
二人が通りへ出ると、毛皮を着た中年商人が焦った顔で周囲へ声を張り上げていた
荷台には黒い木箱が積まれている
箱の隙間から覗く鉱石は、雨で濡れて鈍く光っていた
荷車の前には、灰色の大型獣が二頭繋がれている
馬に似ているが、肩が高く、脚も太い 濡れた鼻息を白く吐きながら、泥を踏み鳴らしていた
街道運搬用の“岩馬”だった
「北側の鉱石だ! 王都南区まで運んでほしい!」
「報酬は!?」
「銀貨九枚!」
その瞬間、近くの運び屋たちが露骨に顔をしかめる
「安いな」 「この泥道でそれかよ」 「岩馬使うなら餌代も掛かるぞ」
誰も動かない
商人の顔に焦りが滲む
街道はまだ不安定だ 運び屋不足も続いている
だが、王都へ荷を戻せなければ商会は損をする
「頼む! 帰り便が全部止まってるんだ!」
レインは黙って荷を見る
鉱石箱五つ
重い
岩馬がいるとはいえ、車輪への負荷は大きい ぬかるみでは危険だ
だが腐る荷ではない 時間制限も薄い
そして何より。
空荷で帰るよりは、ずっと利益が出る
「受けます」
ミナが横を見る
「即決かよ」
「空荷より利益が出ます」
「アンタ本当にそこブレねぇな……」
商人が慌てて駆け寄ってくる
「本当か!?」
「条件があります」
レインは荷台を指差した
「箱を二つ減らしてください」
「は!? 減らしたら利益が――」
「今の街道で重量を増やす方が危険です 岩馬でも車輪が沈めば終わります」
湿った風が吹き抜ける
岩馬が低く鼻を鳴らした
商人が苦い顔で荷を見る
ミナは横でぼそっと呟いた
「また始まったよ計算」
「成功率を上げてるだけです」
少し揉めたあと、結局商人が折れた
「……分かった 三箱でいい」
「では契約を」
レインが荷台へ手をかざす
淡い青色の魔法陣が木箱の下へ広がった
細い線が幾重にも重なり、封印記録式が静かに刻まれていく
朝の薄暗い空気の中、その光だけが妙に綺麗だった
ミナはその様子を眺めながら言う
「アンタ、その魔法だけは妙に手慣れてるよな」
「食べていくために覚えました」
「普通もっと戦闘魔法とか覚えない?」
「戦闘で勝てる人間じゃないので」
レインはあっさり答える
「だから負けない方法を覚えました」
ミナは少し黙る
昨日の崩落地点が頭をよぎっていた
戦う力は弱い
矢にも反応が遅い
でも。
地形 荷 契約 人の動き
全部を使って勝ち筋を作る
それがレインだった
「……変な奴」
「よく言われます」
契約を終え、荷車が再び動き出す
岩馬が重い鼻息を吐きながら泥道を踏み締める
車輪がぬかるみへ沈み、ぐちゃりと重い音を立てた
宿場を離れる頃には、空から細かい霧雨が落ち始めていた
街道は昨日よりさらに重い
道の脇では雨水が斜面を細く流れ落ち、崩れた土が黒く濡れている
「っっ……重……!」
ミナが後ろから荷車を押しながら唸る
鉱石の重みで、荷車は少しずつ泥へ沈んでいた
「鉱石ですから」
「分かってるよ!」
湿った風が頬を撫でる
止まったままの荷車 折れた木 崩れた斜面
雨跡街道はまだ完全には死んでいない だが、生きてもいなかった
「なぁ」
「なんです」
「今、銀貨どれくらい残ってんの?」
レインは少しだけ考える
「十四枚くらいですね」
「減ったなぁ……」
ミナが苦笑する
三十七枚あった金は、一気に減った
返済立替 魔法薬 経費
かなり使った
だがレインの表情に焦りはない
「また増やせばいいので」
「簡単に言うなぁ」
「実際、増やすしかありません」
レインは前を見る
崩れた街道 止まった物流 不足する運び屋
今は稼げる
危険な代わりに、金が動いている
そして。
隣にはミナがいる
一人なら受けられなかった量を運べる 一人なら気付けなかった危険に気付ける
銀貨は減った
だが。
利益を生む手札は増えていた
その時だった
ミナの耳がぴくりと動く
「……止まれ」
レインが即座に岩馬を止める
「どうしました」
「前」
ミナが細い目で街道の先を見る
霧雨の向こう
泥道の真ん中に、何か黒い影が転がっていた
近付くにつれ、それが荷車だと分かる
車輪は片方が砕け 荷台は横倒しになり 木箱が周囲へ散乱している
そして、そのすぐ横。
一頭の岩馬が、泥だらけのまま地面へ倒れていた
首輪は切れ 荒い呼吸だけが白く漏れている
さらに、その近く。
濡れた外套を纏った人影が、動かず倒れていた
風が吹く
外套の端が、泥の上で微かに揺れた
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