第五話 北側宿場と銀貨三十七枚
雨跡街道を抜けた頃には、空は薄暗くなり始めていた
崩落地点を越え、盗賊を退け、泥に沈みかけた荷車を何度も押し戻しながら進んだ先に、ようやく北側宿場の灯りが見えた
濡れた木柵
石造りの門
雨で黒く染まった街道
その向こうから、人のざわめきが漏れている
「……着いたのか」
ミナが肩で息をしながら呟いた
右腕の包帯はまた赤く滲んでいる
顔にも泥がついていたが、それでも足は止まっていなかった
「契約地点です」
「もっと感動しろよ……」
レインは荷車の封印魔法陣を確認する
青い光は崩れていない
荷は無事
重量記録も問題なし
開封痕跡もなし
つまり、依頼は成功だった
宿場の門が開く
「来たぞ!!」
「薬草だ!」
「本当に届いたのか!?」
中から人が一斉に集まってきた
宿場の空気は張り詰めていた
雨で街道が止まり、薬草が不足していたのだろう
咳き込む老人、腕を押さえた男、青い顔で走る宿員たちが、荷車を見るなり息を呑んだ
管理人らしい男が前へ出る
「……よく来られたな」
「契約なので」
「いや、普通は来ねぇよ」
ミナが横で頷く
「それは私も思った」
荷の確認が始まる
管理人が荷台へ手をかざす
刻まれていた封印記録式が淡く青く浮かび上がった
「王都側の契約式か……」
男が目を細める
荷の重量
封印状態
到着時間
魔法陣の光が空中へ流れていく
ミナが不思議そうに瞬きをした
「……今何した?」
「到着確認です」
レインが答える
「契約元へ記録が送られました」
「それだけ?」
「十分です」
数秒後。
管理人室の奥に置かれていた小型魔法陣が淡く発光した
カチ、と金属音が鳴る
引き出しの中へ銀貨が転送されていた
「うおっ!?」
ミナが目を丸くする
管理人は慣れた様子で引き出しを開け、銀貨を数え始めた
「封印確認、契約達成。成功報酬、銀貨十二枚だ」
革袋が差し出される
レインは受け取ると、その場で中身を確認した
一枚
二枚
三枚――
全部で十二枚
問題無い
「確認しました」
ミナは横から覗き込みながら、小さく呟いた
「本当に稼げたんだな……」
「はい」
「でも……」
ミナの声が少し沈む
「まだ足りねぇ」
三日で銀貨十五枚
残りは一日
今日みたいな依頼が明日もある保証はない
妹の宿代も薬代もまだ必要だ
ミナは泥だらけの手で銀貨を握りしめた
「……あと一日で、数枚でも稼げるのか」
さっきまで盗賊へ突っ込んでいた女とは思えないほど、その声は弱かった
レインはしばらく黙っていた
それから、荷袋の奥から小さな青い瓶を取り出す
「飲んでください」
「……何それ」
「治癒用の魔法薬です」
ミナの目が止まった
淡い青色の液体が、瓶の中で揺れている
冒険者なら分かる
安物じゃない
「待て」
ミナの声が強張る
「それ、“青晶級”じゃねぇか」
「そうですね」
「そうですねじゃねぇ!! 一瓶銀貨十枚はするだろ!?」
「十枚でした」
「買ったのか!?」
「買いました」
「なんで!?」
レインは当然のように答える
「怪我人のままだと効率が悪いので」
「言い方!!」
だがレインは本気だった
「右腕が治らないと次の仕事効率が落ちます」
ミナは言葉を失う
銀貨十枚
今の自分が喉から手が出るほど欲しい額に近い
それをレインは薬へ変えていた
「……いつ買ったんだよ」
「必要になると思った時です」
「意味分かんねぇよ……」
ミナは瓶を見つめる
飲めば腕はかなり良くなる
明日も動ける
稼げる可能性が上がる
でも、それはレインの金だ
「……こんなの貰えねぇよ」
「貸しです」
「は?」
レインは帳簿を開く
布で丁寧に包まれていた帳簿には、既に数字が並んでいた
「あなたの返済分、銀貨十五枚」
「……」
「魔法薬、銀貨十枚」
「……」
「合計、銀貨二十五枚です」
「重っ」
「軽い借金ではありません」
「分かってるよ!」
ミナが頭を抱える
「でも、なんでそこまでするんだよ」
「一人で運び屋を続けるのは効率が悪いからです」
レインは淡々と言う
「私は戦えません」
「まぁ、それは見た」
「気配にも鈍い」
「それも見た」
「荷を一人で運べる量にも限界がある」
レインはそこでミナを見る
「あなたは雑ですが、足場の悪い場所でも動ける。戦闘にも気付ける。荷も持てる」
「最後だけ褒めてる感じにするな」
「なので、投資する価値があります」
ミナは何も言えなくなった
優しさではない
少なくともレインはそう言う
だが今のミナには分かってしまった
この男は、損得だけを見ているようで、見捨てる理由を探さない
「契約しましょう」
レインは帳簿を閉じる
「銀貨二十五枚分、あなたは私に借金を負う。その代わり、私はあなたの返済と治療を引き受ける」
「……で、私は?」
「しばらく私の仕事を手伝ってください」
「運び屋として?」
「はい」
ミナは青い瓶を見つめた
逃げることもできる
断ることもできる
だが、もう一人で走り回っても限界なのは分かっていた
妹の熱
薬屋への返済
残り一日という期限
全部が喉元へ刃みたいに突きつけられている
ミナは深く息を吐いた
「……分かった」
そして瓶を受け取る
「借りる」
「契約成立ですね」
「ただし」
ミナはレインを睨む
「私は道具じゃないからな」
「分かっています」
「本当か?」
「利益を出す相方です」
「それもなんか違う!」
そう言いながらも、ミナは瓶の栓を抜いた
苦い薬草の匂いが広がる
一気に飲み干すと、胸の奥から熱が広がり、右腕の痛みがゆっくり引いていった
包帯の下で、傷が塞がっていく感覚がある
「……すげぇ」
ミナは右手を握り、開く
まだ完全ではない
だが、動く
明日も戦える
明日も運べる
明日も稼げる
レインはそれを確認すると、帳簿へ新しい数字を書き込んだ
銀貨は減った
だが、荷車の横にはもう一人いる
一人では受けられなかった仕事を受けられる
一人では抜けられなかった道を抜けられる
一人では気付けなかった危険に気付ける
それは銀貨二十五枚を失ってでも、手に入れる価値があるものだった
宿場の外では、雨が弱まり始めていた
濡れた石畳に灯りが揺れている
ミナは右腕を軽く回し、少しだけ笑った
「なぁ、レイン」
「なんです」
「私、ちゃんと返すからな」
「当然です」
「そこは少しぐらい格好つけさせろよ」
「返してもらわないと困ります」
「はいはい」
ミナは呆れたように笑う
だが、その顔にはもう、さっきまでの不安だけではなかった
まだ借金はある
まだ道は泥だらけだ
まだ稼がなければならない
それでも、もう一人で走らなくていい
レインは荷車を見た
空になった荷台
濡れた縄
泥のついた車輪
そして、その隣に立つミナ
「帰りも荷を探します」
「今!?」
「空荷で帰るのは損なので」
「アンタほんと変わらねぇな!」
北側宿場の灯りの下で、ミナの声が響く
レインは小さく息を吐き、帳簿を懐へしまった
銀貨は減った
だが、一人だった運び屋には、初めて相方ができた
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