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銀貨一枚から始まる物流革命 ~剣を持たない運び屋、世界の流れを支配する~  作者: 紅茶伝
最終章

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第五十九話 潰さないという選択と銀貨二十四枚


 翌朝、王都運送組合の倉庫へ最初に飛び込んできたのは、荷を抱えた商人ではなく、額に汗を浮かべた若い運び屋だった


「黒蛇の西荷場が止まってる!」


 倉庫の奥まで響いた声に、帳簿を確認していたギドが顔を上げる


「止まってるってのは、どういう意味だ」


「朝一番で荷を取りに行ったら管理局の職員が入口にいて、中に入れてもらえなかったんだよ、昨日から預けてる荷があるのに、確認が終わるまで待てって」


「荷は何だ」


「布と油、それから工房へ持っていく鉄材もあったはずだ」


 ギドがレインを見るより先に、レインは机に置いていた荷札を脇へ寄せていた


「届け先は分かりますか」


「俺が運ぶ予定だったから分かるけど、荷そのものが出せねぇんだぞ」


「それでも先に確認します、出せるようになった時、届け先を探すところから始めたら余計に遅れます」


 若い運び屋は一瞬戸惑ったものの、すぐに頷いて机へ向かった


 だが彼が届け先を書き終えるより先に、今度は商人が駆け込んでくる


「南の倉庫もだ、黒蛇に預けた荷が出せない」


「何を預けていますか」


「染料だ、工房へ今日届ける予定だった」


「今日でなければ駄目ですか」


「いや、明日の朝でも間に合うが……」


「なら、今は動かしません」


 商人が目を丸くする


「いいのか?」


「今日中に必要な荷が他にあります」


 レインが答えている間にも、倉庫の入口へ人が増えていった


 修繕所へ届くはずだった木材が来ないという者がいれば、黒蛇商会の荷場で受ける予定だった仕事がどうなるのか聞きに来た運び屋もいる


 管理局が動き始めたことは昨日聞いていた


 多少の混乱が出ることも分かっていた


 だがレインが考えていたより、黒蛇商会が担っていた荷の量は大きかった


 一つの荷場へ職員が入っただけで、その朝に走るはずだった荷車が何台も止まり、そこへ積まれるはずだった荷が別の倉庫へ溢れ始めている


「レイン!」


 外からミナの声が聞こえた


 そのまま倉庫へ入ってきたミナは、珍しく息を切らしている


「川の方もまずい」


「何がありました?」


「荷が増えすぎてる、朝だけで昨日の倍近い、バルドが全部持ってくる奴に、舟を沈める気かって怒鳴ってた」


「全部は受けません」


「そう言うと思って止めてある」


 レインはすぐに昨日までの荷札を広げた


 今日動かさなければ修繕そのものが止まる荷を先に拾い、その後で薬や食料を確認する


 昨日まで急ぎとして扱っていた荷でも、受取先へ聞けば一日待てるものがある


 反対に小さな箱一つでも、それが届かなければ荷車三台の修理が終わらないものもあった


 単純に到着した順番へ並べていては、いくら舟と荷車を増やしても足りない


「ギドさん、修繕所へ行く木材は何に使いますか」


「三台分だ、うち一台は薬師街の定期便らしい」


「先に回します、染料は明日の朝へ」


「鉄材は?」


 若い運び屋が尋ねる


「届け先へ聞いてください、今日加工を始めるなら優先します」


「分かった」


「ミナは川へ戻って、まだ舟へ載せないでください、行き先が決まった荷から渡します」


「了解」


 ミナが走り出し、ギドも運び屋たちへ指示を飛ばす


 レインは次々に届く話を聞きながら、昨日管理局で言われた言葉を思い出していた


 全部を拾おうとするな


 その時は当たり前の忠告にしか聞こえなかったが、今なら意味が分かる


 黒蛇商会が動かしていた荷をそのまま全部引き受けようとすれば、今度は王都運送組合の方が止まる


 必要なのは黒蛇商会の代わりになることではなく、今日止めてはいけない荷だけを別の道へ逃がすことだった


 昼が近付く頃には、朝の混乱も少しずつ形を変え始めていた


 川沿いの荷場には相変わらず木箱が並んでいるものの、行き先の分からない荷は減り、舟へ載せるものと荷車へ直接渡すものが分けられている


 それでも舟の数は足りなかった


「あと一艘増やせませんか」


 戻ってきたバルドへレインが尋ねる


「舟だけならある」


「なら――」


「船頭がいねぇ」


 レインは口を閉じた


 バルドは舟を杭へ繋ぎながら続ける


「前にも言ったろ、昔舟に乗ってた奴らも今は別の仕事してんだ、一日だけ忙しいから戻ってこいって言ったところで、今の仕事放り出す奴はいねぇよ」


「昨日より荷は増えています」


「今日だけなら同じだ」


 その言葉で、レインはそれ以上頼むのをやめた


 人を増やすなら、その人が明日も仕事を続けられるだけの量が必要になる


 今日の混乱だけを見て雇えば、明日荷が減った時に今度はその人の仕事を奪うことになる


「じゃあ今の舟で回します」


「その方がいい、沈めなきゃ何度でも使える」


「沈めません」


「お前じゃなくて荷を持ってくる連中に言ってくれ」


 バルドが笑いながら次の荷を確認していると、通りの向こうから一台の荷車が近付いてきた


 レインは最初、その荷車を気にしていなかった


 だが隣にいたミナが先に気付く


「レイン」


「はい?」


「あれ」


 荷台の側面に、小さな黒い蛇の印がある


 昨日までなら、この荷場へ来るはずのない荷車だった


 周囲にいた独立運び屋たちも気付いたらしく、何人かが手を止める


 荷車は桟橋の手前で止まり、御者台から四十代ほどの男が降りてきた


 居心地が悪そうに周囲を見る


「ここなら、他所の荷でも受けるって聞いた」


「荷を見せてもらえますか」


 レインが近付くと、男は荷台の布をめくった


 乾燥薬草の袋と、藁で包まれた木箱が積まれている


「薬師街へ持っていく予定だった、こっちは薬草で、箱の方は薬瓶だ」


「黒蛇商会の荷ですよね」


「ああ」


「どうして自分たちで運ばないんですか」


 ミナが少し警戒した声で聞く


 男は黒蛇商会の印へ一度目をやった


「運べるなら来てねぇよ」


 朝から管理局が荷場へ入り、帳簿と荷を照らし合わせているらしい


 荷そのものを全て差し止められたわけではないが、確認が終わるまで積み込みを始められない場所があり、さらに管理局の調査を嫌った契約運び屋の何人かが姿を見せなかった


「俺は御者だからな、上で何やってたかなんて知らねぇ」


 男は荷台を軽く叩く


「昨日までは言われた場所へこれを運んで、帰ったら次の荷を積んでた、それだけだ」


「今日は?」


「薬師街へ持っていけって言われた、でも向こうの荷場が動かねぇ、薬草だから明日まで置いとけとも言えねぇし、ここなら川で行けるって聞いた」


 レインは荷札を確認した


 受取先は知っている薬師だった


「受けます」


 ミナがレインを見る


「いいのか?」


「荷は必要とされています」


 レインは男へ向き直る


「ただ、全部を一度には運べません、薬草を先に出して、薬瓶は次の便へ回します」


「構わねぇ」


「料金は掲示してある通りです」


「黒蛇の荷でも同じか?」


「同じです」


 男は少し驚いたようだったが、やがて懐から料金を出した


 それから誰かへ任せるのではなく、自分で荷台へ上がって薬草を降ろし始める


 近くにいた独立運び屋が一瞬迷ったあと、その反対側を持った


 二人とも言葉は交わさなかった


 昨日まで別の仕組みの中で働いていた人間同士が、同じ袋を持って舟へ運んでいく


 レインはその背中を見ていた


 管理局で見た地図の黒い印が頭に浮かぶ


 あの地図を見た時、何かが引っ掛かった


 今なら、その正体が少しだけ分かる


 黒い印の下にいる人間まで、黒蛇商会そのものではない


 今目の前で薬草を運んでいる男が、修繕所への圧力を決めたわけではない


 倉庫で木箱を積む人夫も、乾燥場で木材を管理している職人も同じだろう


 黒蛇商会が仕事を作ったことで生活している人間も、確かにいる


「レイン殿」


 背後から声を掛けられた


 振り返ると管理局の職員が二人立っていた


 昨日までの使者とは違い、表情が硬い


「管理局まで来ていただきたい」


「今ですか」


「今だ」


 レインが川を見る


 荷はまだ多い


 するとギドが帳簿を抱えたまま顎を動かした


「行ってこい、こっちは回す」


「でも」


「お前がいねぇと何も出来ないように作った覚えはねぇだろ」


 その言葉に、レインは少しだけ笑った


「お願いします」


「おう」


「私も行く」


 当然のようにミナが横へ来る


「呼ばれたのは私です」


「今度は絶対行く」


「どうしてですか」


「嫌な感じするから」


 さっきまでとは違う声だった


 レインもそれ以上止めなかった


 二人が管理局へ着くと、昨日とは別の部屋へ案内された


 扉を開けた瞬間、レインは呼ばれた理由がただの確認ではないと分かった


 長い机の片側には管理局の職員が並び、その反対側には数人の商人が座っている


 中央にいる男だけは、周囲の者とは空気が違った


 五十を少し過ぎたほどの年齢で、黒い上着には派手な装飾がない


 だが指には商会の印章があり、その横にはレインが何度も見てきた黒蛇の紋章が置かれていた


 男が顔を上げる


「君がレインか」


「はい」


「随分若いな」


「よく言われます」


「私は君の名前を随分前から聞いている」


「そうなんですか」


「最近、私のところへ来る荷が減った原因としてな」


 隣でミナの表情が変わった


 レインは彼女より半歩前へ出る


「黒蛇商会の方ですか」


「代表のヴァルガだ」


 名前を聞いた瞬間、今まで見えなかった黒蛇商会の中心がようやく人の姿になったような感覚があった


 レインは何度も黒蛇商会の名を聞いてきた


 木材を押さえた商会


 修繕所へ金を出した商会


 運び屋を囲い込んだ商会


 だが目の前にいるのは怪物ではなく、一人の商人だった


「座れ」


 昨日会った白髪の男が管理局側から声を掛ける


 レインとミナが席へ着くと、ヴァルガはレインから目を逸らさないまま言った


「修繕所へ直接材料を流し、使われなくなった川を引っ張り出し、こちらと契約していない運び屋へ仕事を渡したそうだな」


「はい」


「私の商会を狙ったのか」


「違います」


「結果として私の仕事は減った」


「必要なところへ荷を運んだだけです」


「それを商売では競争と呼ぶ」


 レインは少し考えた


「なら、普通のことじゃないですか」


 ミナが横で口元を押さえる


 ヴァルガの隣にいた男が不快そうな顔をしたが、本人は怒らなかった


「なるほどな」


 むしろ僅かに笑う


「だから厄介だったのか」


「何がですか」


「こちらを潰そうとしているなら、やり方はいくらでもあった、お前はただ自分の荷を動かしていただけだ、だからこちらが一つ塞いでも、別の場所から流れてくる」


 レインは返事をしなかった


 自分ではそんなつもりで考えたことがなかったからだ


 東部大橋が使えなければ、荷だけを渡す方法を考えた


 街道が詰まれば順番を変えた


 修繕所に材料が届かなければ川を使った


 最初から黒蛇商会に勝つためではなく、止まった場所を避けてきただけだった


「でも、あなたたちは違った」


 レインが言う


「何がだ」


「止まった場所を避けようとした人の、次の道まで塞いだ」


 ヴァルガの笑みが消える


 その時、白髪の男が厚い帳簿を机へ置いた


「その話をするために集めたわけではない」


 部屋の空気が変わった


「黒蛇商会の帳簿、契約記録、関係する商人と運び屋の証言を確認した」


 ヴァルガは黙って聞いている


「契約書へ記載されていない条件を融資先へ要求し、従わなかった相手について複数の取引先へ同時に働き掛けた記録も確認出来た」


「取引相手を選んだだけだ」


「一箇所ならそう言えただろう」


 白髪の男は帳簿を開く


「同じ相手について、複数の場所へ同時期に取引を見直すよう伝えた記録が残っている」


 ヴァルガの横にいた男たちが僅かにざわめいた


「管理局としては、これ以上の継続を認めない」


 ヴァルガが初めて白髪の男を見る


「処分を聞こう」


「黒蛇商会の商業許可を取り消す」


 その言葉が落ちた瞬間、レインの中で昨日から残っていた引っ掛かりが一気に形を持った


 ヴァルガの顔ではない


 今朝、薬草を運んできた御者が浮かんだ


 次に修繕所で働いていた職人が浮かぶ


 黒蛇商会の融資を受けなければ仕事を続けられなかった店もあった


 そこにいる人間全員が、黒蛇商会のやり方を決めたわけではない


「商会資産については被害の補償と債務の清算へ充て、契約中の倉庫と荷場は――」


「待ってください」


 気付いた時には声を出していた


 全員の視線がレインへ集まる


 白髪の男が言葉を止めた


「何だ」


「黒蛇商会をなくすんですか」


「そう言った」


「そこで働いている人は?」


「未払いの賃金が生じないよう清算する」


「その後は?」


「新しい仕事まで管理局が保証することは出来ん」


 予想していた答えだった


 だからこそ、レインは次の言葉をすぐに出せなかった


 黒蛇商会は間違ったことをした


 被害を受けた人もいる


 それならなくなって当然だと言えば、話は簡単だった


 だが朝から荷場で起きていたことを見たあとでは、その言葉だけで終われなかった


「何人いるんですか」


 レインはヴァルガを見る


「何の話だ」


「黒蛇商会で働いている人です」


 ヴァルガは訝しそうにレインを見たあと、少し考えた


「直接雇っている者なら百二十七人だ」


「契約している運び屋は?」


「今なら五十前後、常に同じ人数ではない」


「他にもいますよね」


「倉庫、人夫、修繕所、材料商……どこまで数えるかによる」


 レインは息を吐いた


 想像していたより多い


 しかも、それは単なる数字ではなかった


 何人かは実際に顔を見ている


「商会をなくしたら、その人たちの仕事も一緒になくなります」


「だから何だ」


 ヴァルガの声が低くなる


「私を助けたいのか」


「違います」


「では何だ」


「荷を止めたくないんです」


 ヴァルガの眉が僅かに動いた


 レイン自身、その言葉を口にしてようやく考えが繋がった


「今朝、黒蛇商会の荷場が止まっただけで、私たちのところへ荷が溢れました」


 白髪の男も黙って聞いている


「川へ持ってこられた荷は昨日の倍近くになって、舟が足りなくなりました、黒蛇商会がなくなったら、あれがもっと増えます」


「一時的な混乱は想定している」


「一時的で済みますか」


 白髪の男の表情が僅かに変わる


「私たちだけでは運べません」


「他の商会へ仕事を移す」


「すぐには無理です」


 今度は迷わなかった


「今日、舟を一艘増やそうとしました、でも船頭がいませんでした、昔舟に乗っていた人がいても、今は別の仕事をしています、今日だけ必要だから戻ってきてと言っても戻れません」


 レインは今朝バルドと交わした会話をそのまま思い出していた


「荷車も同じです、黒蛇商会が使っている荷車を、明日から別の商会が全部使えるわけじゃない、倉庫だって荷場だって、場所だけあれば動くわけじゃない」


 人がいる


 積み方を知っている者がいる


 届け先を知っている者がいる


 荷が濡れるか、割れるか、今日中に必要なのかを知っている者がいる


 それを全部なくしてから新しく作り直すなら、その間に荷は止まる


「黒蛇商会がやったことを許せって言っているわけではありません」


 レインはヴァルガではなく、管理局側を見る


「でも、悪いところをなくすために、動いているところまで全部壊す必要はないと思います」


「簡単に言うな」


 ヴァルガの声だった


 レインが振り返る


 ヴァルガは椅子から立ち上がっていた


「お前は私が何年掛けてこの仕組みを作ったと思っている」


 管理局の職員が僅かに身構える


 ヴァルガは構わず続けた


「運び屋は荷が少なければ仕事を寄越せと言い、多ければこんな量は運べないと言う、修繕所は金がないから材料を買えないと言い、材料商は先に金を払わなければ売らない、倉庫の持ち主は荷が増えれば使用料を上げる」


 拳が机の上へ置かれた


「だから私が先に金を出した、材料を確保し、倉庫を借り、修繕所へ融資し、運び屋には一定の仕事を保証した、ばらばらだったものを一つにしたから、大きな荷を安定して動かせるようになった」


 レインは反論しなかった


 その部分まで間違っているとは思わなかったからだ


「それは凄いと思います」


 ヴァルガが一瞬黙る


「何?」


「そこまで作ったことです」


「なら、なぜ邪魔をした」


「他の人が同じことをしようとした時、その道を塞いだからです」


 レインはゆっくり言葉を選んだ


「黒蛇商会が安く運べるなら、みんな黒蛇商会を使えばいいと思います、早いならもっと使う人が増える、それなら私たちが負けても仕方ありません」


「随分簡単に言うな」


「負けたくはありませんけど」


 ミナが小さく笑う


「でも、競争する前に荷場を使えなくされたら、何が良かったのか比べることも出来ません」


 ヴァルガは答えない


「あなたたちは流れを作ったんじゃなくて、途中から流れを自分のところだけに向けようとした」


 レインはそこで初めて、黒蛇商会の地図と自分たちが作った地図の違いを言葉に出来た


「それで他の道が消えたから、どこか一つ止まっただけで全部困るようになったんです」


 白髪の男がレインを見る


「ではどうしろと言う」


 レインはすぐには答えなかった


 管理局の処分を考える知識などない


 法律も分からない


 だから、自分が今まで荷を運ぶ中で覚えたことだけを考えた


「黒蛇商会は残します」


 ヴァルガが鼻で笑う


「私に都合のいい話だな」


「今まで通りではありません」


 レインは続ける


「契約書にない条件を押し付けたならやめる、断った人の仕事を他の場所まで使って奪うのもやめる、被害を受けた人への補償も必要です」


「それで?」


「その上で、普通に商売してください」


「普通に?」


「黒蛇商会が持っている倉庫も荷車も、人もそのまま使えばいいです、正当に借りた場所まで誰かへ渡す必要はないと思います」


「ならまた同じことになるぞ」


 白髪の男が言う


「ならないように管理局が見るんじゃないですか」


 今度はセリオが吹き出しかけた


 白髪の男がレインを睨む


「簡単に仕事を増やしてくれるな」


「私たちも増えました」


「それは君が勝手に増やしたんだろう」


「そうですね」


 ミナがとうとう笑った


 張り詰めていた空気が僅かに緩む


 だがヴァルガだけは笑わなかった


「そんなやり方で商売が出来ると思っているのか」


 その声には、さっきまでとは違う重さがあった


「材料を他にも売らせ、荷場を他の運び屋にも使わせ、修繕所にも相手を選ばせる、それでこちらが今までと同じ量の仕事を取れると思うか」


「同じ量じゃなくなるかもしれません」


「なら何のために残る」


「取り返せばいいじゃないですか」


 ヴァルガの眉が動く


「今度は仕事で」


 レインはヴァルガの後ろにいる黒蛇商会の男たちを見る


「黒蛇商会には倉庫があります、荷車があります、仕事を知ってる人もいる、届け先との繋がりもある、私が最初に持っていたものよりずっと多いです」


「お前が最初に?」


 レインは頷いた


「銀貨一枚です」


 部屋が静かになった


「最初は銀貨一枚しかありませんでした、荷車も馬も倉庫もなくて、自分で持てる荷しか運べなかった」


 あの頃は一度仕事に失敗すれば、それで終わると思っていた


 だから荷をよく見た


 道を見た


 自分一人で無理なら人へ頼み、金が足りなければすぐに買わず、必要になった時に使った


 いつの間にかミナが隣にいた


 ギドもいた


 橋を渡せなければ縄を使い、街道だけで足りなければ川まで使うようになった


「銀貨一枚でもここまで来られました」


 レインはヴァルガを見る


「黒蛇商会には百人以上の人と、荷車と、倉庫と、今まで積み上げた仕事があります、それでも他の人の道を塞がなきゃ商売出来ないんですか」


 ヴァルガの表情が止まった


 すぐに答えは返ってこなかった


 長い時間を掛けて築いた商会だからこそ、失うのが怖かったのかもしれない


 仕事を取られる前に相手を囲い、材料が足りなくなる前に買い占め、運び屋が他へ行く前に契約で縛った


 そうやって守るものが増えるほど、さらに強く囲わなければならなくなったのだろう


「……若造が」


 やがてヴァルガが呟く


「はい」


「そこは否定しろ」


「若いのは本当なので」


 ミナが肩を震わせる


 ヴァルガは大きく息を吐き、椅子へ座り直した


「管理局」


 白髪の男を見る


「商会を残す場合、何を求める」


 レインは口を挟まなかった


 ここから先はヴァルガ自身が決めることだった


 白髪の男もすぐには答えず、机の書類を一度閉じた


「軽い条件にはならん」


「分かっている」


「圧力を掛けて結ばせた契約は全て確認する、被害が認められれば補償もさせる、今後一定期間は管理局へ取引記録を提出してもらう」


「他には」


「契約にない条件を相手へ要求しない、他社との取引を理由に不利益を与えない、同様のことが確認されれば次はない」


 ヴァルガは目を閉じた


 自分の商会を残すためだけなら、すぐに頷けばいい


 だが今までのやり方を捨てるということは、明日から仕事を奪われる可能性も受け入れるということだった


 しばらくして目を開く


「一つ条件がある」


 管理局の職員たちが僅かに身構える


「何だ」


「私の商会が正当に持っている倉庫、荷車、契約まで奪わないことだ」


「当然だ」


 白髪の男は迷わず答えた


「処分するのは違反した行為だ、商売そのものではない」


 ヴァルガはレインを見る


「聞いたか」


「はい」


「なら次に仕事を取られても文句を言うな」


「それはこっちの台詞です」


 ヴァルガの目が僅かに見開かれた


 今度はミナだけでなくセリオまで笑った


 ヴァルガも少し遅れて鼻で笑う


「気に入らんな」


「私もです」


「レイン」


 ミナが肘で小突く


「そこは少しくらい合わせろよ」


「嘘を言っても仕方ないでしょう」


 話し合いは、それで終わりにはならなかった


 そこから管理局と黒蛇商会は一つずつ契約を確認し、どこまでが正当な取引で、どこからが圧力によって結ばれたものなのかを詰めていった


 声が大きくなる場面もあった


 黒蛇側が全てを認めたわけではなく、管理局もレインの言葉だけで処分を軽くしたわけではない


 ただ、最初に机へ置かれていた商業許可取り消しの書類だけは、最後まで読み上げられることがなかった


 レインが口を挟んだのは、荷について話が出た時だけだった


 倉庫を調べるなら中の荷が誰のものか先に分ける


 契約を解く運び屋にも、今持っている荷を届けるまでは仕事を続けてもらう


 修繕所への材料を止めれば、黒蛇商会と関係のない荷車まで止まる


 その一つ一つを説明していくうちに、管理局側も黒蛇側も、処分の日程を一度に進めるのではなく、荷の流れを確認しながら順番に整理することで折り合った


 窓から入る光が赤みを帯びる頃になって、ようやくレインとミナは管理局を出た


 階段を降りた途端、ミナが大きく伸びをする


「長かったぁ……」


「途中、寝てませんでした?」


「寝てない」


「目を閉じていました」


「難しい話を聞く時は閉じた方が集中出来るんだよ」


「初めて聞きました」


「今考えた」


「やっぱり寝てたじゃないですか」


 通りへ出ても、レインの頭にはまだ管理局で見た書類が残っていた


「なあ」


 ミナが歩きながら声を落とす


「本当にあれでよかったと思う?」


 レインは少し考えた


「まだ分かりません」


「そっか」


「黒蛇商会が本当に変わるかはこれからです、ヴァルガさんが約束を守るかも分かりません」


「また道塞ぎ始めるかもしれないしな」


「その時は管理局が怒ると思います」


「お前は?」


「仕事を取ります」


 ミナが吹き出した


「そっちかよ」


「普通に競争していいと言いましたから」


「お前、意外と容赦ないよな」


 王都運送組合へ戻る頃には、空が薄暗くなり始めていた


 それでも倉庫の前には荷車が出入りし、川からは最後の舟が戻ってくる


「遅ぇ!」


 ギドの声が飛んでくる


「すみません」


「どうなった」


 レインは答えようとして少し考えた


「黒蛇商会は残ることになりました」


 ギドの手が止まる


「……お前、何してきた?」


「話し合いです」


「何を話したらそうなるんだよ」


「長くなります」


 ミナがギドの肩を叩く


「飯食いながら聞け、私も途中よく分かんなかった」


「お前何しに行ったんだ」


「見張り」


「役に立ってねぇじゃねぇか」


 二人が言い合っているところへ、若い運び屋が帳簿を持ってきた


「今日の分、まとまったぞ」


 レインが受け取り、ギドも横から覗き込む


 朝から黒蛇商会側で止まった荷が流れ込んだことで、扱った量そのものは昨日より増えていた


 その一方で、自分たちだけでは運び切れない荷を独立運び屋へ回したため、入ってきた運賃の全てが王都運送組合に残ったわけではない


 船頭には増えた便の分を払い、荷場では普段より多くの人夫を使った


 追加した荷札と縄の費用も掛かり、急ぎの荷車には通常より少し高い区間運賃を支払っている


 それでも一日を通して動いた荷が多かった分、全てを支払った後には銀貨五枚が残った


 昨日までの銀貨十九枚へ重ねれば、手元にあるのは銀貨二十四枚になる


「増えたな」


 ミナが言う


「はい」


「今日あんなに他へ払っても?」


「その分、運んだ量も増えましたから」


 レインは銀貨を袋へ戻した


 最初に持っていたのは銀貨一枚だった


 あの一枚を使うことすら怖かった頃から考えれば、銀貨二十四枚という数字は十分大きい


 それでも、今ではその金額より、今日一日に何人へ金を払ったかの方が気になるようになっていた


 船頭へ渡した金は、明日の舟を動かす


 独立運び屋へ払った金は、その荷車を次の仕事へ向かわせる


 修繕所へ仕事が戻れば、そこで直った荷車がさらに別の荷を運ぶ


 自分の袋へ残らなかった銀貨まで、どこかで荷を動かしている


「何笑ってんだ?」


 ミナが顔を覗き込む


「笑っていました?」


「ちょっとな」


「気持ち悪いぞ」


「失礼ですね」


 レインが帳簿を閉じようとした時、倉庫の外で荷車が止まった


 何気なく顔を上げたギドの表情が変わる


「おい」


 荷台の側面には黒蛇商会の印が残っていた


 朝来た荷車とは別のものだった


 御者が降りてきて、倉庫の中を少し警戒するように見回したあと、レインへ荷札を差し出す


「明日の便で頼みたい」


 レインは受け取った


「どこまでですか」


「東の修繕所だ」


「いつまでに?」


「昼まででいい」


 レインは机の上から白い紐を取った


 明日の便へ回す荷に使っているものだった


 荷札へ結ぶ


 御者はその手元を見たまま動かなかった


「……受けるのか」


「何がですか」


「黒蛇の荷だぞ」


「見れば分かります」


「いや、そうじゃなくて」


 男が言葉に詰まる


 レインは荷札をもう一度確認した


「料金は同じです」


「本当に変な奴だな」


「今日二回目です」


 後ろからミナの声がする


「前から言われてるだろ」


「ミナ以外からは今日が初めてです」


「そこ数えてたのかよ」


 御者が笑った


 朝来た男とは違う


 それでも同じ黒蛇商会の印が付いた荷車から、今度は誰に追われるでもなく荷が降ろされていく


 若い運び屋が受け取り、明日の荷置き場へ運んだ


 その途中で、川から戻ったバルドが声を掛ける


「明日は朝から二艘出すぞ」


「船頭は足りるんですか」


「一人戻ってくる」


「昨日は難しいって」


「今日の荷を見たんだよ」


 バルドは濡れた縄を杭へ掛けながら笑った


「一日だけなら来ねぇ、だが明日も明後日も仕事があるなら話は別だ」


 レインはその言葉を聞いて、管理局で自分が言ったことを思い出した


 場所だけ残しても荷は動かない


 人がいて、その人が明日も仕事になると思えるから流れが続く


 黒蛇商会も同じなのかもしれない


 残すと決めただけでは何も変わらない


 明日から実際に別の商会と競い、仕事を取り、約束を守り、その積み重ねで初めて変わったと言える


 倉庫の奥では、黒蛇商会から預かった荷の隣へ別の商人の木箱が置かれた


 誰の荷だから先にするのではなく、必要な時刻を見て明日の順番を決める


 ギドが帳簿へ書き込み、ミナが荷札を確かめ、若い運び屋が荷車の空きを数えている


 レインもその中へ戻り、次の荷札を手に取った


 黒蛇商会との争いに勝ったのかと聞かれれば、まだ答えは分からない


 ただ、相手の道を消すのではなく、同じ道の上で明日も仕事を取り合える形だけは残った


 倉庫の外では舟を岸へ繋ぐ縄が張られ、その向こうの通りを一台の荷車がゆっくりと走り去っていく

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!

もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!

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