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銀貨一枚から始まる物流革命 ~剣を持たない運び屋、世界の流れを支配する~  作者: 紅茶伝
最終章

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第五十五話 最初の川便と銀貨八枚


 夜が明けるより少し前、王都運送組合の倉庫にはすでに灯りがともっていた


 外はまだ暗く、東の空にも朝の色はほとんど見えない。それでも倉庫の中では、眠そうな顔をした運び屋たちが声を掛け合いながら荷を動かし、初めての川便へ回す木箱を一つずつ選び出していた


 普段なら朝便の荷車を囲んでいるはずの人間たちが、その日は倉庫の奥へ集まっている


 街道便へ回す荷と川へ流す荷を間違えれば、必要な場所へ必要な物が届かない。しかも川便は初めてなのだから、積める量も、到着までに掛かる時間も、どこまで信用出来るのかも誰にも分かっていなかった


 だから皆、いつも以上に慎重になっていた


 若い運び屋が木箱を抱えて運んでくると、ギドがその場で荷札を確かめ、違う便の物だと分かればすぐに元の場所へ戻させる。その横ではミナが修繕所から届いた依頼書を何度も見直しながら、必要な縄の長さと金具の数が合っているかを確かめていた


「これ、本当に全部入るのか」


 ミナは積み上がった荷を見ながら眉を寄せた


 荷車へ積むなら大した量ではない


 だが小舟へ載せるとなれば話は違う


 木箱の大きさだけで決めれば、舟の片側へ重さが寄り、少し流れが強くなっただけでも傾くかもしれない


 レインは帳簿から顔を上げた


「全部は載せません」


「朝からそれを選んでたんじゃないのか」


「最初の便へ載せる物を決めていました」


「だから、それが全部じゃないのかって聞いてるんだよ」


 ミナが苛立ったように言うと、レインは机の上へ広げた依頼書を指でなぞった


「修繕所へ今日中に届けなければならないのは、太い固定縄と車軸用の留め具です。薬師街へ向かう薬箱は昼までに届けば間に合います。それ以外は次の便へ回せます」


「最初からそう言え」


「説明している途中でした」


「お前の途中は長いんだよ」


 ミナが呆れた顔で息を吐くと、近くで荷札を書いていた若い運び屋が笑いを堪えきれずに肩を震わせた


 その声を聞いたミナが振り返ると、若者は慌てて帳簿へ顔を伏せる


「笑ったな」


「笑ってません」


「肩が動いてたぞ」


「寒いだけです」


「倉庫の中でか」


 言い逃れをする若者をミナが睨んでいると、倉庫の入口から低い笑い声が聞こえてきた


「朝から元気だな」


 バルドだった


 肩へ太い縄を掛け、その後ろには昨日船着場で顔を合わせた若い船頭が二人続いている


 一人は細身で背が高く、もう一人は肩幅が広い。二人とも年齢は二十代半ばほどに見えたが、手には水仕事で出来た硬い皮があり、歩き方にも舟の揺れへ慣れた人間特有の癖があった


 バルドは倉庫へ入るなり積み上げられた荷を見て、露骨に顔をしかめた


「お前ら、舟を沈めるつもりか」


 ミナがすぐにレインを指差す


「ほら、やっぱり多いって言ってる」


「まだ全部載せるとは言っていません」


「言い訳は後だ」


 バルドは荷の前へしゃがみ込み、木箱を一つ持ち上げて重さを確かめると、すぐに隣へ置いた


「荷車の積み方と同じに考えるな。舟は真ん中が重すぎても駄目だし、端へ寄せても駄目だ。軽い荷を上へ積めばいいってもんでもねぇ」


 若い船頭の一人が、修繕所へ送る金具の箱を持ち上げる


「これ、見た目より重いですね」


「車軸用です」


 近くにいた修繕職人が答えた


「一つ一つは小さいが、中身は全部鉄だ。昨日からこれを待ってる工房が二軒ある」


 船頭は箱を抱え直しながら顔をしかめる


「これを端へ置いたら確実に傾きますよ」


「だから中央だ」


 バルドは床へ縄を置き、舟の形を示すように細長い輪を作った


「重い物は真ん中へ低く置く。濡らしたくない物は上へ載せるんじゃなく、布で包んで舟底から少し浮かせろ。揺れた時に動かないよう、縄は荷へ直接掛けずに舟の骨へ通す」


 運び屋たちは自然とその周囲へ集まった


 荷車では、荷台の上へ出来るだけ隙間なく詰め、縄で全体を押さえればいい。だが舟では、荷物の位置そのものが舟の安定へ影響する


 同じ荷を運ぶ仕事でも、考え方はまるで違っていた


「聞いてるか」


 バルドが顔を上げると、荷車の積載を担当している男が慌てて頷いた


「聞いてる」


「じゃあ、この薬箱はどこへ置く」


 男は少し考え、中央よりやや後ろを指差す


「ここか」


「沈めたいのか」


「違うのかよ」


「舟の後ろには船頭が乗る。人の重さも荷の一部だ」


 男は悔しそうに顔をしかめる


「そんなもん、乗ってみなきゃ分からねぇだろ」


「だから今教えてるんだ」


 バルドは口元を緩めた


「荷車の連中は、自分の知ってる運び方が全部だと思ってやがる」


「舟の連中だって、荷車を扱わせたら軸を折るだろ」


 男が言い返すと、若い船頭たちから笑いが起きた


「それはあるな」


「前に荷車借りた時、曲がるだけで片輪浮いたぞ」


「それはお前の乗り方が悪かっただけだ」


 互いに言い合いながらも、倉庫の空気は少しずつ柔らかくなっていった


 つい昨日まで、彼らは別々の場所で別々の仕事をしていた


 街道を走る運び屋と、使われなくなった川を守る船頭が、同じ荷を囲んで積み方を相談する日が来るなど、誰も考えていなかっただろう


 レインはその様子を見ながら、帳簿へ予定を書き込んでいた


 最初の便へ載せるのは、修繕所へ届ける固定縄と金具を中心にする。薬師街へ向かう薬箱は、舟が戻った後の二便目へ回す


 一度で全てを運ぼうとすれば失敗する


 最初に必要なのは量ではなく、確実に届くという実績だった


「出発はいつにします」


 レインが尋ねると、バルドは入口の外へ目を向けた


「空が明るくなる前には出る」


「暗い方が危なくないのか」


 ミナが聞くと、バルドは鼻を鳴らす


「明るくなってから川へ舟が増える方が面倒だ。今は使われてねぇ川でも、洗濯する連中や小舟で野菜を運ぶ奴はいる。最初の便でぶつけたら笑い話にもならん」


 それからレインへ視線を戻す


「それと、今日は途中で一度止まる」


「どこでですか」


「川が浅くなってる場所がある。昨日見た時は通れたが、荷を載せれば底を擦るかもしれねぇ」


 ミナは嫌そうな顔をした


「昨日はそんなこと言ってなかっただろ」


「聞かれなかったからな」


「先に言えよ!」


「言ったらやめたのか」


 ミナは言葉に詰まり、レインを見る


 レインは少し考えたあと、静かに首を横へ振った


「やめません」


「ほらな」


 バルドが笑うと、ミナは二人を交互に睨んだ


「似た者同士で勝手に決めるな」


 それでも準備は止まらなかった


 運び屋たちは船頭の指示を受けながら木箱の位置を変え、修繕職人は金具が水へ触れないよう箱の隙間へ布を詰める。薬箱は二便目へ回すため壁際へ戻され、代わりに工房で不足していた細い留め具が入った小箱を舟へ載せることになった


 荷物の量は最初に用意した半分ほどまで減った


 それでも積み込みが終わった時には、誰も少ないとは言わなかった


 無理に載せて川へ沈めるより、必要な物を確実に届ける方が大切だと、皆が理解し始めていたからだ


 外へ出ると、空の端がわずかに白んでいた


 船着場まで運ぶため、木箱は二台の小さな荷車へ分けて載せられる


 普段なら一台で済む量だったが、車輪への負担を減らすために分けたのだ


 修理を終えたばかりの車輪を使っている以上、川へ着く前に荷車が止まれば意味がない


 レインとミナは先頭の荷車へ付き、ギドは倉庫へ残ることになった


「失敗してもいい」


 出発前、ギドはレインへそう言った


 レインは少し驚いて顔を上げる


「いいんですか」


「勘違いするな。荷を捨てて帰ってこいって意味じゃねぇ」


 ギドはレインの肩へ手を置いた


「最初から完璧にやろうとして、全部失うなって言ってる。途中で無理だと思ったら戻れ。銀貨五枚しか残ってねぇんだ。舟まで壊したら、本当に終わるぞ」


 声は厳しかったが、その手には力が入っていた


 レインは静かに頷く


「分かっています」


「お前の分かってますは信用ならねぇ」


 ギドは苦笑した


「だからミナ、危なくなったら止めろ」


「任せろ」


「私の判断は」


「信用してる」


 ギドは即答した


「だが、お前は自分の金になると急に大胆になる」


 レインは反論出来なかった


 銀貨一枚を全て小麦へ変えた時から、その点だけは変わっていないのかもしれない


 荷車が動き出すと、まだ人の少ない王都の通りへ車輪の音が響いた


 空は少しずつ明るくなり、店先では朝の準備を始めた商人たちが、見慣れない時間に荷を運ぶ一団へ視線を向けている


 誰も声は掛けない


 だが王都運送組合が街道ではなく川へ荷を回そうとしているという噂は、すでに少しずつ広がっていた


 船着場へ着く頃には、バルドの用意した三艘の小舟が岸へ並んでいた


 中央の舟へ金具と縄を積み、残りの二艘には船頭と補助の人間が乗る。最初から三艘全てへ荷を積むのではなく、もし中央の舟に問題が起きた時、荷を移せるよう空きを残すためだった


「無駄じゃないのか」


 荷を運んできた男が尋ねると、バルドは舟の縄を解きながら答えた


「何も起きなきゃ無駄だ。だが何か起きた時、その無駄が命綱になる」


 その言葉に、誰も反論しなかった


 レインは一艘目へ乗り込み、ミナも続こうとしたが、舟が揺れた瞬間に足を止めた


「私も乗るのか」


「昨日も乗りましたよ」


「昨日は荷が無かっただろ」


「今日は私がいます」


「それで安心出来ると思ってるのか」


 ミナは嫌そうに言いながらも舟へ足を掛ける


 船頭が手を差し出すと、一瞬だけ迷ってからその手を掴み、慎重に舟底へ降りた


「笑ったら川へ落とすからな」


「笑ってません」


 若い船頭は必死に口元を引き締めていた


 バルドが最後に乗り込むと、岸へ集まった運び屋たちを見回した


「見送る暇があるなら戻って次の荷を用意しろ」


「最初くらい見せろよ」


 岸の男が言い返す


「沈むところを見たいのか」


「縁起でもないこと言うな!」


 怒鳴り声と笑いが重なる中、バルドは竿を川底へ突いた


 小舟がゆっくりと岸を離れる


 後ろの二艘も続き、三艘の舟は朝靄の残る川へ滑り出した


 街道を走る荷車のような力強さはない


 車輪の音も、岩原馬の蹄も聞こえない


 それでも舟は確かに進んでいた


 岸から見送る人々の姿が少しずつ小さくなり、王都の石造りの建物が水面へ影を落としていく


 最初のうちは順調だった


 バルドの竿が川底を押すたびに舟は前へ進み、若い船頭たちも左右の流れを確かめながら距離を保っている


 荷へ掛けた縄も緩んでいない


 ミナは最初こそ舟の縁を強く掴んでいたが、しばらくすると少しだけ力を抜いた


「思ったより揺れないな」


「荷の位置がいいからです」


 若い船頭が得意そうに答える


「昨日まで荷車しか触ってなかった奴らにしては、悪くない積み方です」


「上からだな」


「舟の上ですから」


 その返しに、ミナは目を細めた


「ちょっと面白いこと言ったつもりか」


 船頭が慌てて前を向く


 バルドは肩を震わせながら笑っていた


 だがその空気は長く続かなかった


 川が細く曲がる場所へ差し掛かった時、舟底から鈍い音が響いた


 船体が大きく揺れ、中央へ積んでいた木箱の一つが僅かに動く


「止まれ!」


 バルドの怒鳴り声が川へ響いた


 後ろの二艘が慌てて竿を入れ、流れに乗って前へ出ないよう距離を取る


 レインはすぐに木箱を押さえた


 ミナも反対側へ手を伸ばし、傾きかけた箱を元へ戻す


「何が起きた!」


「浅瀬だ!」


 バルドは舟の横から水面を覗き込み、竿で底を探った


 昨日より水位が下がっている


 夜の間に上流の堰が閉じられたのか、舟が通れる幅が狭くなっていた


「押せば抜けるか」


 ミナが聞く


「このまま押せば舟底を傷める」


 バルドの声には焦りが混じっていた


「荷を軽くするしかねぇ」


 後ろの舟を近付け、中央の舟から荷を移すことになった


 だが川幅が狭く、二艘を横へ並べれば岸へぶつかる


 船頭たちは声を掛け合いながら位置を調整するものの、流れが少し強くなるたびに船体が離れ、木箱を渡せる距離が作れない


「もっと近付けろ!」


「これ以上寄せたら岸へ擦ります!」


「なら竿で止めろ!」


「底が柔らかくて効かないんです!」


 怒鳴り声が重なり、舟の上へ緊張が広がる


 レインは周囲を見た


 右側の岸には古い石段があり、その途中へ一本だけ太い杭が残っている。使われなくなった船着場の跡なのだろう


「一度、あそこへ寄せましょう」


 バルドが振り返る


「寄せられねぇから困ってる」


「舟同士を近付ける必要はありません」


 レインは石段を指差した


「あの杭へ縄を掛け、中央の舟を固定します。荷を一度石段へ上げてから、後ろの舟へ積み直します」


 ミナが石段を見る


「遠回りだぞ」


「舟を壊すより早いです」


 バルドは一瞬だけ迷った


 だがすぐに竿の向きを変える


「やるぞ!」


 船頭の一人が縄を持ち、石段へ飛び移る


 足元の苔で滑りかけたが、ミナが腕を掴んで引き戻した


「気を付けろ!」


「すみません!」


 杭へ縄が掛かると、中央の舟はようやく流れへ持っていかれずに止まった


 レインたちは木箱を一つずつ石段へ上げ、後ろの舟へ積み直していく


 最初の積み込みで覚えた通り、重い箱を中央へ低く置き、縄を舟の骨へ回して固定する


 荷車の運び屋と船頭が互いの仕事を確認しながら動かなければ、出来ない作業だった


 最後の箱を移し終えた時には、全員の額へ汗が浮かんでいた


 夜明け前の冷たい空気の中で、誰も寒さを感じていなかった


「押すぞ」


 バルドが竿を握る


 軽くなった舟へ力を掛けると、船底が石を擦る音を立てながら少しずつ前へ進んだ


 一度止まりかけたが、後ろから若い船頭が竿を添え、二人で押し続ける


 やがて舟底が浅瀬を抜け、ふっと抵抗が消えた


 舟が流れへ戻る


「抜けた!」


 若い船頭が声を上げた


 ミナはその場へ座り込み、大きく息を吐く


「最初からこれかよ」


 バルドは苦い顔で笑った


「川は待たねぇって言っただろ」


「止まりはしたけどな」


「口が減らねぇ女だ」


 言い返しながらも、バルドの表情には安堵が滲んでいた


 荷を積み替えたため、予定より時間は掛かった


 それでも三艘の舟は再び川を進み始めた


 途中で何度も縄を確認し、荷の位置が動いていないかを確かめる。最初のような軽口は減ったが、代わりに互いの動きを見る目が変わっていた


 船頭が竿を入れる前に運び屋が荷を押さえ、川が曲がる場所ではミナが後ろの舟へ声を飛ばす


 誰か一人が全てを出来るわけではない


 だから足りない部分を、別の人間が補っていた


 修繕所へ続く船着場が見えたのは、予定より半刻ほど遅れた頃だった


 岸にはすでに人が集まっている


 親方と若い職人たちだけでなく、荷車を直せず待っていた運び屋たちまで川沿いへ降りてきていた


 遠くから舟が見えた瞬間、若い職人が岸の端まで走り出す


「来た!」


 その声に、工房の中からさらに人が飛び出してくる


 親方は走ることこそしなかったが、腕を組んだまま岸へ立ち、近付いてくる舟から目を離さなかった


 舟が板場へ触れると、船頭たちはすぐに縄を掛ける


「遅ぇぞ!」


 親方は怒鳴った


 だがその声は怒りだけではなかった


 来なかった時の覚悟をしていた人間が、ようやく息を吐いたような声だった


「浅瀬で少し止まりました」


 レインが答えると、親方は舟へ積まれた箱を見た


「荷は」


「全部あります」


 その一言を聞いた瞬間、親方の肩から力が抜ける


「……そうか」


 掠れた声だった


 若い職人たちは待ちきれずに舟へ手を伸ばし、修繕所へ必要な箱を受け取っていく


 一人が固定縄の束を抱え、もう一人が金具の箱を持ち上げる。重さで腕が下がると、近くにいた運び屋が黙って反対側を支えた


「これがあれば、あの車輪を仕上げられる」


 若い職人が興奮した声を上げる


「親方、昨日の荷車も今日中に戻せます!」


「分かったから騒ぐな!」


 親方は怒鳴り返したが、その口元には隠しきれない笑みが浮かんでいた


 工房へ荷が運び込まれると、止まっていた作業が一斉に動き始める


 縄が車輪へ掛けられ、金具が取り出され、軸へ合わせて寸法が確かめられる。昨日まで材料が届かず置かれていた荷車の下へ職人が潜り込み、待っていた運び屋も工具を渡すため隣へしゃがんだ


 親方は木槌を手に取ると、しばらく柄を握り締めていた


 何日も振るえなかった重さを確かめているようだった


「親方?」


 若い職人が声を掛ける


 親方は顔を上げ、工房中へ響く声で怒鳴った


「仕事だ! 今日中に二台戻すぞ!」


 職人たちの返事が重なる


 木槌が金具を叩く音が工房へ響き、それを合図にしたように別の場所でも工具の音が戻ってくる


 誰かが笑い、別の誰かが急げと怒鳴る


 昨日まで静まり返っていた修繕所へ、ようやく仕事の音が戻ってきた


 レインはその光景を見ながら、舟へ残った縄を片付けていた


 バルドが隣へ立つ


「半刻遅れだ」


「はい」


「舟も一度止まった」


「はい」


「最初の便としては、褒められたもんじゃねぇ」


 バルドは厳しい顔で言ったあと、工房へ目を向けた


 職人たちは届いた金具を使い、壊れた荷車を直している


「だが、届いた」


 その声は少しだけ柔らかかった


「それで十分です」


 レインが答えると、バルドは鼻を鳴らした


「次は浅瀬を避ける。今日の道は使わねぇ」


「別の道があるんですか」


「川にも道はある」


 バルドは口元を上げた


「見えねぇだけでな」


 昼過ぎ、二便目の舟も無事に薬師街へ荷を届けた


 最初の便で起きた問題を受け、荷の量をさらに減らし、浅瀬を避けるため少し遠回りする流れを選んだ。到着は遅くなったが、薬箱は一つも濡れず、待っていた薬師は箱を開けた瞬間にその場へ座り込みそうなほど安堵した


「今日届かなかったら、治療を明日へ延ばすしかなかった」


 薬師は箱を抱えながら、何度も頭を下げた


「助かった。本当に助かった」


 若い船頭は照れ臭そうに頭を掻き、バルドは礼なら金で払えとぶっきらぼうに返した


 そのやり取りを見ていたミナは、小さく笑う


「結局、嬉しいんじゃん」


「うるせぇ」


 バルドは顔を逸らした


 夕方、最後の舟が王都運送組合の倉庫へ戻ると、岸にはギドと何人もの運び屋が待っていた


 舟が見えた瞬間、若い運び屋たちが駆け出し、濡れた縄を受け取って岸へ引き上げる


 バルドが降りるより先に、ギドがレインを睨んだ


「遅かったな」


「浅瀬で止まりました」


「怪我は」


「ありません」


「荷は」


「全て届きました」


 ギドはしばらくレインの顔を見たあと、大きく息を吐いた


「ならいい」


 それだけ言って背を向けたが、歩き出す前に小さく付け加える


「よくやった」


 レインは少し驚いた顔をした


 ミナはすぐに笑う


「今の聞いたか」


「聞こえてます」


「もう一回言ってもらえ」


「言わねぇぞ!」


 ギドが振り返って怒鳴ると、岸にいた人々から笑いが起きた


 倉庫へ戻ると、帳簿係の若者が机へ銀貨を並べていた


 初日の依頼料が支払われたのだ


 修繕所からは緊急便の代金として銀貨三枚、薬師街からは銀貨二枚が入っている


 しかし、それがそのまま利益になるわけではなかった


 船頭二人の日当へ銀貨一枚を払い、浅瀬で使った縄の交換と荷札の作り直しにも銅貨が必要になった。荷を船着場まで運んだ人足にも賃金を支払い、今日使用した舟の小さな補修代も帳簿へ加えられる


 ギドは一つずつ支出を読み上げ、若い帳簿係が数字を書き直していく


「結局、今日増えたのは銀貨三枚か」


 ミナが机を覗き込みながら言った


「思ったより少ないな」


「最初から大きく増えると思ってたのか」


 ギドは呆れた顔をする


「舟を動かすにも人を使うにも金は掛かる。荷が届いたからって、全部懐へ入れたら次は誰も働かねぇ」


 バルドも腕を組んだまま頷いた


「無償で続く流れなんてねぇ」


 レインは帳簿へ目を落とした


 船着場契約を終えた時に残っていた銀貨五枚へ、今日の利益として銀貨三枚が加わっている


 残金は銀貨八枚


 大きな金ではない


 荷車一台を完全に直せば、すぐに消えてしまうかもしれない額だった


 それでも、減り続けていた金が初めて増えた


 しかも黒蛇商会が握る街道ではなく、自分たちで作った新しい流れから生まれた利益だった


「増えましたね」


 レインが静かに言うと、ギドは鼻を鳴らした


「三枚だけだぞ」


「最初は、それで十分です」


 その言葉を聞いたバルドが、少しだけ笑った


「一本繋がりゃ、次も繋がる」


 倉庫の外では、夕日に照らされた小舟が岸へ揺れていた


 朝には互いの積み方すら知らなかった運び屋と船頭が、今は並んで濡れた縄を干し、次の便で使う荷札を一緒に確かめている


 その様子を少し離れた橋の上から、灰色の上着を着たセリオが見つめていた


 手元の記録板には、出発時刻と到着時刻、届けられた荷の種類、途中で起きた遅れまで細かく書き込まれている


 一度止まりながらも荷は届いた


 修繕所は動き、薬師街にも必要な物が渡った


 まだ王都全体を支えられる量ではない


 けれど、黒蛇商会を止めた後にも荷を動かせる可能性が、初めて数字として残った


 セリオは記録板を閉じると、夕暮れの中を管理局へ向かって歩き始めた


 その背後では、翌朝の便に備えて小舟が岸へ引き寄せられ、船頭の竿が川底へ差し込まれている


 細い川面へ広がった波紋は、倉庫の灯りを揺らしながら、王都の奥へゆっくりと流れていった

ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!

もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!

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