第五十三話 船着場契約と銀貨五枚
小舟は川面を滑るように進んでいた
王都の表通りで響いていた荷車の音はもう遠く、代わりに聞こえるのは、舟底を撫でる水の音と、バルドが竿を川底へ突くたびに生まれる小さな揺れだけだった
ミナは舟の縁を掴みながら、水面を覗き込む
「なんで使われなくなったんだ」
バルドは少しだけ笑った
「荷車の方が速く見えたからだ」
「見えた?」
「大きな荷を運ぶには便利だろうよ。道も広がったし、商会は一度に多く運べる方を選ぶ。川は遅い、面倒だ、天候に左右される。そう言われて、少しずつ荷が減っていった」
バルドは竿を動かしながら、川沿いに並ぶ古い倉庫を見上げる
「だがな、道が塞がれば荷車は止まる。車輪が割れればそこで終わりだ。川は大きくは運べねぇが、少し流れが変わっても別の岸へ寄せられる。細い荷なら、繋げる」
その言葉に、レインは顔を上げた
自分が探していたものを、バルドはずっと前から知っていたのだろう
大きな流れではない
だが止まらない細い流れ
黒蛇商会が街道や修繕所を押さえようとしている今、その古い流れには意味があった
やがて小舟は、使われなくなった船着場へ近付いた
水面へ張り出した古い板場はところどころ黒ずみ、杭へ巻かれた縄も新しくはない。それでも板は完全には腐っておらず、荷を降ろすだけなら十分に耐えられそうだった
その奥には小さな倉庫がある
扉は錆びているが、屋根はまだ落ちていない
「ここは?」
レインが尋ねると、バルドは舟を岸へ寄せながら答えた
「昔の薬師組合の倉庫だ。今はほとんど使われてねぇが、中はまだ生きてる」
岸へ上がり、バルドが古い鍵を回すと、重たい扉が軋みながら開いた
中には埃が積もっていた
だが床は乾いている
壁際の棚も残っており、川へ直接出られる小さな搬入口まであった
レインは倉庫へ足を踏み入れた瞬間、頭の中で荷の流れを組み立て始めていた
修繕所へ送る縄や小型の金具をここで受け、薬師街から市場へ向かう薬草もまとめる。荷車で運ぶには小さいが、止まれば困る荷を一度ここへ集めて川で細かく動かせば、黒蛇商会が街道を押さえている間にも別の流れを作れる
その可能性が、埃を被った倉庫の中で少しずつ形になっていく
「使えます」
レインは静かに言った
バルドは鼻を鳴らす
「使えるかどうかは、お前次第だ」
「借りるにはいくら必要ですか」
その言葉に、バルドは少し驚いた顔をした
「金の話をするのか」
「必要です」
レインは真っ直ぐ答えた
「無償では流れは続きません。船頭にも、倉庫にも、働く人にも対価が必要です」
バルドはしばらくレインを見ていた
そして、少しだけ満足そうに笑う
「小金貨二枚」
ミナが目を見開いた
「高っ」
「倉庫一月分と舟三艘、船頭二人。安くはねぇが、ぼったくりでもねぇ」
バルドはレインを見る
「払えるか」
小金貨二枚
今の組合にとって軽い金ではない
手持ちは小金貨二枚と銀貨五枚
ここで小金貨二枚を払えば、残るのは銀貨五枚だけになる
ミナはすぐにレインを見た
「おい、さすがに一回戻ってギドと相談した方がいい」
当然だった
これを払えば、組合の余裕はほとんど消える
だがレインは倉庫の中を見回していた
埃を被った棚
乾いた床
川へ直接出られる搬入口
そして、王都の街道とは別に流れる水路
ここを逃せば、黒蛇商会が次に押さえるかもしれない
昨日まで見えていなかった流れが、今目の前にある
レインは深く息を吸った
「払います」
ミナが顔をしかめる
「本気か」
「はい」
「残り、銀貨五枚だぞ」
「分かっています」
レインはバルドを見る
「ただし条件があります」
バルドの目が面白そうに細くなる
「言ってみろ」
「この船着場を、王都運送組合だけのものにはしません」
バルドは黙った
「修繕所、個人運び屋、小さな商人、必要な人が使える流れにします。その代わり、利用した分は必ず支払ってもらう。無償ではなく、続けられる形にします」
バルドはしばらく何も言わなかった
やがて、喉の奥で笑う
「本当に変わった運び屋だ」
「よく言われます」
「いいだろう。一月だけ貸してやる。使い物にならなきゃ返してもらう」
「十分です」
レインはその手を握った
硬い手だった
川で生きてきた人間の手だ
この手もまた、荷車とは違う形で物流を支えてきたのだろう
その時、倉庫の外で誰かが咳払いをした
ミナがすぐに振り向く
船着場の入口に、灰色の上着を着た男が立っていた
商人にしては身なりが固い
役人にしては腰が低い
胸元には小さな銀章が留められている
バルドはその銀章を見るなり、露骨に顔をしかめた
「王都管理局か」
男は困ったように笑う
「邪魔をするつもりはありません」
「役人がそう言う時は、大抵邪魔しに来た時だ」
ミナが小声で呟く
「知り合いか」
「船着場を使うなら、顔を出さずにはいられない連中だ」
バルドは不機嫌そうに答える
男はレインへ視線を向けた
「王都運送組合のレインさんですね」
「はい」
「私は王都管理局のセリオと申します」
レインは軽く頭を下げた
「管理局の方が、なぜここへ」
セリオはすぐには答えなかった
倉庫の中を見回し、川へ続く搬入口と、埃を被った棚、それからレインとバルドの握られた手を順に見た
「この船着場を、使うおつもりですか」
「はい」
「黒蛇商会とは関係なく?」
ミナの目が細くなる
「どういう意味だ」
セリオは責められることを予想していたのか、表情を変えずに答えた
「最近、この川沿いの倉庫へ黒蛇商会が接触していることは、管理局でも把握しています」
バルドが舌打ちする
「把握してるなら止めろよ」
その言葉に、セリオの顔が少しだけ曇った
「止めるには理由が必要です。倉庫を借りる、船頭を雇う、荷を流す。表向きは商取引ですから」
「人が困ってる」
ミナの声が低くなる
「それでも契約なら放っておくのか」
セリオは悔しそうに唇を結んだ
「放っておきたいわけではありません」
その声には、役人らしい固さの奥に、人間としての苛立ちが滲んでいた
「ですが、管理局が証拠も無く商会の契約を止めれば、次は全ての商会が管理局を疑います。王都が気に入らない商売を潰すのか、と」
バルドは鼻を鳴らす
「面倒な理屈だ」
「その通りです」
セリオは否定しなかった
「だから私たちは、動ける形を探しています」
レインは静かにセリオを見る
「動ける形?」
「はい」
セリオは倉庫の奥へ視線を向けた
「黒蛇商会を止めたとして、その後の荷を誰が動かすのか。そこが無ければ、管理局が動いた瞬間に王都の物流が止まります」
その言葉に、ミナが小さく息を呑む
セリオは続けた
「ですが、この川筋が動けば話は変わります。街道以外の流れがあると示せれば、黒蛇商会だけに頼る必要はなくなる」
レインは何も言わなかった
政治側は見ていなかったわけではない
ただ、動けば別の流れまで壊してしまう恐れがあった
だからこそ、代わりに荷を動かせる誰かを待っていた
そういうことなのだろう
セリオは懐から小さな木札を取り出した
「これは正式な認可ではありません」
そう前置きして、レインへ差し出す
「一日限りの臨時使用札です。今日、試験的にこの船着場から荷を動かす分には、管理局は止めません」
バルドが目を細める
「一日だけか」
「今の私に出せるのは、それが限界です」
セリオは悔しそうに笑った
「ですが、荷が実際に動いた記録が残れば、次はもう少し強い札を出せます」
レインは木札を受け取った
軽い札だった
だがその軽さとは裏腹に、意味は重かった
王都管理局はまだ味方になったわけではない
けれど、完全に敵でもない
彼らもまた、動く理由を探している
「ありがとうございます」
レインが頭を下げると、セリオは少し困ったように目を逸らした
「礼を言われるほどのことはしていません」
「それでも、助かります」
セリオはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた
「黒蛇商会は、あなた方を軽く見ていません」
「分かっています」
「なら急いでください。彼らがこの川筋へ本格的に手を伸ばす前に」
その言葉を残し、セリオは船着場を後にした
バルドはその背中を見送りながら、嫌そうに鼻を鳴らす
「役人に見られながら仕事するのは好きじゃねぇ」
「でも止めには来ませんでした」
レインが言うと、バルドは不満そうに竿を担いだ
「なら、さっさと動かすぞ。夕方までに船頭を二人寄越す。荷があるなら試しに流せ」
「今日からですか」
「川は待たねぇ」
その言葉に、レインは少しだけ目を見開いた
そしてすぐに頷く
「分かりました」
船着場を出る頃には、昼の光が川面へ揺れていた
来た時にはただの細い川にしか見えなかった場所が、今は違って見える
小舟が進める幅がある
荷を置ける倉庫がある
古い船頭がまだいる
そして、管理局が出した一日限りの小さな札がある
どれも頼りない
けれど、完全に止まった街道の横で、別の流れを始めるには十分だった
ミナが隣で呟く
「また全部賭ける顔してる」
「今回は全部ではありません」
「銀貨五枚しか残らないのに?」
「残ります」
「屁理屈だろ、それ」
ミナは呆れたように笑った
二人は王都運送組合へ向かって歩き出した
背後ではバルドが小舟を押し出し、川の流れを確かめるように竿を入れている
水面を進む小さな舟は、街道を走る荷車に比べればあまりにも頼りない
だがその細い流れは、黒蛇商会がまだ完全には握っていない場所へ確かに続いていた
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