第五十二話 古い川筋と小金貨二枚銀貨五枚
川沿いへ降りる石段は、西商業区の裏手にひっそりと残っていた
表通りでは荷車の車輪が石畳を叩き、商人たちの声が建物の壁へ跳ね返っているというのに、ひとつ路地を曲がって川へ近付くだけで、その騒がしさは背中の向こうへ薄れていく
水面を撫でる風には湿った土と古い木の匂いが混じり、船着場の杭には何度も結び直された縄が深く食い込んでいた
ミナは石段を降りながら、狭い川幅を見て顔をしかめる
「本当にここを使う気なのか」
水面には小舟が数艘揺れている
どれも大きな荷を載せる船ではない
街道を走る荷車と比べれば頼りなく見えるし、黒蛇商会が押さえている大量の木材を動かすには明らかに足りなかった
「荷車の代わりにはならないだろ」
「はい」
レインが迷わず頷いたせいで、ミナはますます嫌そうな顔になる
「なら何を運ぶんだよ」
「荷車一台分を運ぶ必要はありません」
レインは川面へ視線を落とした
水はゆっくり流れ、その先には王都の古い倉庫街が続いている
大きな商会が見向きもしなくなった場所だからこそ、まだ誰にも握られていない流れが残っているように見えた
「黒蛇商会は、荷車を止めようとしています」
「木材を押さえて、修理代を上げて、運び屋を囲い込み独占するために、だろ」
「はい。だから、荷車が止まっても運べるものを先に動かします」
ミナは少し黙り、小舟の方へ目を向けた
頼りなく揺れていた舟が、そこで初めて別の意味を持ち始めたのだろう
「重い木材じゃなくて、車輪の金具とか、縄とか、薬とか、そういう小さいやつか」
「はい。荷車一台を満たす量にはならなくても、止まれば困る荷はあります」
レインは古い船着場を見渡しながら続けた
「修繕所へ届かない縄が一本あるだけで、荷は固定出来ません。工房へ届かない小さな金具が一つあるだけで、車輪は完成しません。大きな荷を動かせなくても、必要な物を細く繋げれば、止まった流れを少しだけ動かせます」
ミナは川を見つめたまま、口元を少し緩める
「考えることは地味なのに、やってることは結構えげつないな」
「褒めていますか」
「半分くらいは」
その時、船着場の奥からしゃがれた声が飛んできた
「誰がその舟を出すって?」
二人が振り返ると、古びた倉庫の影から老人が姿を現した
背は高くないが腕は太く、日に焼けた肌と鋭い目つきには、長く水辺で働いてきた人間特有の迫力があった
片手に持った古い竿を地面へ突き、老人はレインとミナを交互に見てから鼻を鳴らす
「ここは荷車置き場じゃねぇぞ」
ミナが少し身構える
だがレインは一歩前へ出て、丁寧に頭を下げた
「王都運送組合のレインです」
「名前は聞いたことがある。最近やたら運び屋を集めてるって噂の若造だろ」
「集めているというより、止まった荷をもう一度動かしたいだけです」
「言うだけなら楽だ」
老人は竿の先で川を示した
水面は穏やかに見えるが、岸に近いところでは石が顔を出している
「この川は浅いし曲がる。雨が続けば流れが変わるし、晴れが続けば舟底を擦る。商会どもが見向きもしなくなったのは、それなりに理由があるんだ」
その声には拒絶だけではなく、使われなくなった場所を守り続けてきた人間の意地が滲んでいた
レインは川面を見つめたまま答える
「大きな荷は運びません」
老人の眉が動く
「何?」
「最初に運びたいのは、修繕所へ回す小物です」
レインは懐から黒蛇商会の紹介状を取り出した
指定工房への誘導と、修理代の立て替え条件が記された紙を見た瞬間、老人の顔が露骨に険しくなる
「黒蛇か」
「ご存じですか」
「嫌でも耳に入るだろ」
老人は吐き捨てるように言った
「あいつら、最近は川の倉庫にも声を掛けてる。表の街道だけじゃ飽き足らず、古い船着場まで買い叩こうとしてやがる」
ミナの顔が険しくなる
「ここにも来たのか」
「来たさ」
老人は背後の古い倉庫を顎で示す
「あの倉庫をまとめて借りたいと言ってきた。値は悪くなかったが、あいつらの荷だけ流す川になるくらいなら、朽ちた方がまだましだ」
その言葉に、ミナが少し笑った
老人はすぐに睨む
「何がおかしい」
「いや、かっこいいなと思って」
「馬鹿にしてんのか」
「してないって」
ミナが両手を上げると、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ
その時、川上から小舟を押していた若い船頭が近付き、老人へ声を掛けた
「バルド爺さん、その人たち客ですか」
老人は面倒そうに振り返る
「まだ客かどうかも分からねぇ」
若い船頭はレインたちを見て、少しだけ目を丸くした
「王都運送組合の人ですよね。最近、運び屋を助けてるって聞きました」
「余計なことを言うな」
老人は竿で軽く地面を叩いた
だが、その一言で老人の名前は自然と二人の耳へ入っていた
バルド
レインはその名を心の中で覚える
バルドは若い船頭を追い払うように手を振り、改めてレインへ向き直った
「で、若造。お前はそんな忘れられた川を今さら使いたいと言う」
「はい」
「都合がよすぎると思わねぇのか」
厳しい声だった
ミナが何か言いかけたが、レインは先に一歩前へ出る
「思います」
バルドの目が細くなる
「使われなくなった時に見向きもしなかった人間が、困った時だけ頼るのは都合がいいと思います」
「分かってるなら帰れ」
「でも、それでもお願いしたいんです」
レインは深く頭を下げた
川風が外套を揺らす
「街道だけに頼れば、また止められます。荷車だけに頼れば、車輪を押さえられた時点で終わります。でも川があるなら、細くても別の流れを作れます」
バルドは黙っていた
「今すぐ大きな荷は運べません。それでも、止まった修繕所へ縄を届けることは出来るかもしれない。急ぎの部品を別の工房へ回すことは出来るかもしれない。荷車が直るまでの間、商人の小さな荷を繋ぐことは出来るかもしれない」
レインの声は静かだった
「私たちは、忘れていた流れをもう一度使わせてほしいんです」
川の音だけが残った
ミナは黙ってレインの横に立っている
バルドはしばらくレインを見ていたが、やがて短く笑った
「変わった運び屋だな」
「よく言われます」
「だろうな」
バルドは竿で小舟を引き寄せた
古い舟だった
板には傷が多く、何度も補修した跡がある
だが船底はしっかりしていた
「乗れ」
ミナが目を見開く
「え、今から?」
「話だけで川が分かるか。流れを見るなら乗れ」
バルドは当然のように言った
レインが小舟へ足を掛けると、船体が小さく揺れる
ミナは不安そうに水面を見下ろした
「落ちたら怒るからな」
「誰にですか」
「お前に決まってるだろ」
文句を言いながらもミナが舟へ乗ると、バルドは竿を川底へ突き、ゆっくりと舟を押し出した
小舟は音もなく岸を離れる
石畳の通りでは荷車の車輪が重く響いていたが、川の上へ出るとその音は遠くなり、代わりに水が船底を撫でる音と、竿が川底を突く音だけが近くなった
ミナは少し落ち着かない様子で周囲を見る
「思ったより静かだな」
「昔はうるさかった」
バルドが前を見たまま言う
「この辺りは朝から舟が詰まってた。野菜を積んだ舟もあれば、布を濡らさないように必死で押さえてる小僧もいた。薬草の匂いで川沿いが青臭くなる日もあった」
バルドは懐かしそうに目を細める
「誰かが遅れれば怒鳴り合いになって、荷を落とせば近くの舟まで巻き込んで拾った。面倒な場所だったが、あれも一つの流れだった」
レインは黙って聞いていた
バルドの声には、忘れられた川への怒りではなく、もう一度誰かに使われることをどこかで待っていたような寂しさが混じっていた
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!




