第五十一話 集う修繕屋と小金貨二枚銀貨五枚
次の修繕所へ向かう道の途中で、ミナは何度も後ろを振り返っていた
さっきまでいた工房の前では、親方と若い職人が壊れた車輪を囲みながら何かを話し込んでいる。まだ木材が足りるわけではないし、修理代が安くなったわけでもない。それでも、昨日まで諦めかけていた職人たちの手はもう止まっていなかった
「さっきの親方、怒鳴りながら泣きそうだったな」
ミナがぽつりと言う
「はい」
「職人って、もっと頑固で面倒なだけの人たちだと思ってた」
「頑固だから、あそこまで苦しかったんだと思います」
レインは歩きながら答える
「直したいのに直せない。走らせたいのに走らせられない。それは運び屋が荷を運べなくなるのと同じです」
ミナはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた
「……なら、次も簡単にはいかなそうだな」
「そうですね」
「そこは少し否定してくれよ」
ミナが肩を落とすと、レインはほんの少しだけ笑った
二人が向かった先は、西商業区の奥にある古い修繕所だった
先ほどの工房よりもさらに年季が入っている。壁の板は何度も張り替えられ、軒先には使えなくなった車輪が吊るされていた。店の前には修理待ちの荷車が三台ほど並んでいるが、職人たちの動きは鈍い。客を待っているというより、どうにも出来ない荷車を前にして時間だけが過ぎているようだった
レインが入口へ近付くと、中から低い声が飛んでくる
「今日は新しい客は取れねぇぞ」
まだ姿も見せていないのに、拒絶だけが先に出てきた
ミナが眉を上げる
「歓迎されてるな」
「入ります」
「聞いてたか?」
レインは軽く頭を下げてから中へ入った
工房の奥では、髭の濃い親方が椅子へ腰を下ろしていた。腕は太く、肩も大きい。だがその足元には削りかけの車輪が置かれたままで、工具は机の端へ投げ出されている
親方はレインを見るなり、露骨に顔をしかめた
「王都運送組合か」
「はい」
「帰れ」
短い言葉だった
ミナの目が細くなる
だがレインは怒らなかった
「お話だけでも聞いていただけませんか」
「聞いたところで木は増えねぇ」
親方は椅子から立ち上がると、壁に立て掛けられた車輪を足で軽く押した
車輪はゆっくり転がったが、途中で大きく揺れて倒れた
「見ろよ」
親方の声が荒くなる
「こんなもん、まともな車輪じゃねぇ。走らせりゃ割れる。だが客は待ってる。金もねぇ。木もねぇ。そこへ運び屋が来て、物流を守りたいから手を貸せだと?」
親方はレインを睨みつける
「綺麗なこと言うのは楽だよな。お前らは荷車が動かなきゃ次を探せばいい。こっちは壊れると分かってる車輪を客に渡すか、客を見捨てるか、そのどっちかを選ばされてんだ」
工房の奥にいた職人たちが顔を伏せる
誰も親方を止めない
それだけ溜まっていたのだろう
レインは最後まで聞いた
親方が息を荒げながら黙ると、ようやく口を開く
「次を探せばいいとは思っていません」
「何?」
「荷車が止まった運び屋は、次を探す前に食べられなくなります。商人も、荷が届かなければ店を開けられません。だから私は、次を探すのではなく、止まった荷車をもう一度走らせたいんです」
親方の眉が動く
レインは続けた
「そのために、あなたたちの力が必要です」
「力だと?」
「壊れた車輪を見て、どこの木が悪いのか分かる人が必要です。どの修理ならまだ走れるのか、どこまでが危ないのか、それを判断出来る人が必要です。私たち運び屋には分かりません」
親方はすぐには答えなかった
怒りの残った顔のまま、レインを見つめる
「俺たちに責任を押し付けに来たんじゃねぇのか」
「違います」
「じゃあ何だ」
「一緒に責任を持ってほしいんです」
その言葉に、工房の中が静かになった
親方は目を細める
「……厄介な言い方をするな」
「すみません」
「褒めてねぇ」
ミナが小さく笑いそうになったが、親方の顔を見て飲み込んだ
親方はしばらく黙っていたが、やがて壁際の車輪へ近付いた。倒れた車輪を起こし、木肌を撫でる
「昨日、これを取りに来た運び屋がいた」
低い声だった
「代金が足りねぇから待ってくれって言われた。俺は待ってやってもよかった。だが待ったところで、こいつが本当に走れるかどうか分からねぇ」
親方の指が車輪の縁で止まる
「だから渡さなかった」
その言葉は、怒りではなく悔しさだった
「そいつ、何も言わずに帰ったよ。頭下げてな」
レインは黙って聞いていた
「俺は職人だ。壊れると分かってる車輪は出せねぇ。でも出さなきゃ、そいつは仕事に戻れねぇ」
親方は振り返る
「なあ、運び屋」
声が少しだけ震えていた
「俺はどうすりゃよかった」
レインはすぐに答えなかった
簡単な答えなど無い
ここで正しい言葉を探しても、親方の苦しみは軽くならない
だからレインは正解ではなく、自分に出来ることを言った
「その運び屋を探します」
親方が目を見開く
「は?」
「組合で荷を回します。荷車が直るまで、別の便へ乗せます。修理代はすぐには払えなくても、走れるようになってから返してもらえばいい」
「そんなことをしてたら、お前の組合が潰れるぞ」
「だから修繕所の方々に協力してほしいんです」
レインは真っ直ぐ親方を見た
「どの荷車を先に直すべきか、どの車輪なら短距離だけ走れるか、どの運び屋に代替の荷車を回すべきか。あなたたちが判断してくれれば、私たちは荷の流れを組み替えられます」
親方の顔つきが変わる
ただ助けてくれと言われるより、その方が職人には響いたのだろう
自分たちの技術が必要だと言われている
それが分かったからだ
親方は奥の職人たちへ目を向けた
「おい」
呼ばれた若い職人が顔を上げる
「昨日の運び屋、名前は分かるか」
「たしか、ラッツって言ってました。南門側で走ってる人です」
「探せるか」
職人は少し驚いた顔をしたあと、力強く頷く
「探します」
親方はレインへ向き直る
「いいだろう」
低い声だった
「うちはまだ首を縦には振らねぇ。だが車輪は見る。どの木が駄目で、どれなら走れるか、それだけは教えてやる」
レインは深く頭を下げた
「ありがとうございます」
「礼を言うのは早い。俺はまだお前を信用したわけじゃねぇ」
「はい」
「だが」
親方は少しだけ目を逸らした
「さっきの運び屋を探すって言葉だけは、悪くなかった」
それだけ言うと、親方は不機嫌そうに奥へ戻っていった
ミナはレインの隣で小さく笑う
「不器用だな、あの人」
「はい」
「でも嫌いじゃない」
「私もです」
二人が工房を出る頃、奥では職人たちが壊れた車輪を並べ始めていた。さっきまで諦めたように置かれていた車輪が、一つずつ調べ直されていく。使えるもの、危ないもの、短距離なら耐えられるもの。それを見分ける職人たちの目には、少しだけ光が戻っていた
次の修繕所へ向かう途中で、ミナは空を見上げた
「これ、今日だけで何軒回るんだ」
「行けるところまでです」
「出た」
「何がですか」
「お前の行けるところまでって、だいたい倒れる直前までって意味だろ」
レインは少し考えた
「今日は倒れる前に戻ります」
「信用できないな」
ミナは笑った
その笑いに、レインも少しだけ肩の力を抜く
次に向かったのは、川沿いに近い小さな修繕所だった
そこは工房というより、ほとんど小屋に近い場所だった。古い荷車の部品が壁際へ立て掛けられ、軒下には使い古された縄が干されている。中からは子供の泣き声が聞こえた
ミナが少し表情を変える
「家族でやってる店か」
「そのようです」
レインが声を掛けると、中から女が出てきた
三十代ほどの女性だった
手には布巾を持っている
作業着姿ではないが、指先には細かな傷が残っていた
「ごめんなさい、今は修理を受けられないんです」
最初から謝っていた
それがかえって痛々しかった
レインは頭を下げる
「王都運送組合のレインです。少しお話を聞かせていただけませんか」
女はその名前を聞いて、少しだけ表情を変えた
「あなたが……」
「ご存じですか」
「夫が話していました」
女は店の奥を見る
「変な運び屋がいるって」
ミナが小さく噴き出す
「評判になってるぞ」
レインは少し困った顔をした
奥から咳き込む声が聞こえる
女は慌てて振り返った
「すみません、夫が少し体調を崩していて」
「無理はさせません」
「いえ、話したがると思います」
女が中へ案内すると、奥の作業台の前に痩せた男が座っていた
顔色は悪い
だが目だけは鋭かった
「王都運送組合か」
掠れた声だった
「はい」
「うちは見ての通りだ。手を貸せるほど余裕はねぇぞ」
男は苦笑する
「昨日から修理を三件断った。今朝は常連が一人、黒蛇商会の紹介状を持ってきたよ」
レインの目が細くなる
「紹介状ですか」
「ああ」
男は机の上から一枚の紙を取る
「黒蛇商会の指定工房へ行けば、修理代を立て替えるってさ。代わりに、今後の荷は黒蛇商会の便を優先しろって書いてあった」
ミナの顔が険しくなる
「金で縛る気か」
「金だけならまだ分かる」
男は紙を握り締めた
「でもな、あいつはここへ来る前に俺に謝ったんだ。すみません、もう待てませんって。俺は何も言えなかった」
女が唇を噛む
男は続ける
「うちは親父の代から荷車を直してきた。金が無い奴には待ってやったし、急ぎの荷なら夜通しでも直した。でも今は駄目だ。木も無い。縄も無い。俺の体も言うことを聞かねぇ」
悔しそうに笑う
「情けねぇだろ」
レインは首を横へ振った
「情けなくありません」
「慰めはいらねぇ」
「慰めではありません」
レインは紙へ視線を落とした
「その紹介状を見せてくださっただけで十分です」
男は眉をひそめる
「こんな紙が何になる」
「黒蛇商会がどうやって運び屋を囲い込んでいるのか分かります」
レインは静かに言った
「修繕所が断らざるを得ない状況を作り、その先に自分たちの指定工房を用意している。困った運び屋はそこへ行くしかありません」
男の表情が固まる
「俺たちが断ることまで計算に入れてるってことか」
「おそらく」
女が小さく息を呑む
男はしばらく紙を見つめ、やがて苦々しく笑った
「最悪だな」
「はい」
「……なら、これを持っていけ」
男は紹介状をレインへ差し出した
女が驚く
「あなた」
「いいんだ」
男は掠れた声で続けた
「俺は今すぐ車輪を作れねぇ。けど、この紙が役に立つなら持っていけ」
レインは受け取る前に深く頭を下げた
「必ず使います」
「頼むぞ」
男の声には、悔しさと願いが混じっていた
「うちの常連を、全部あいつらに持っていかれるのだけは見たくねぇ」
レインは紹介状を受け取った
その紙は薄い
だがそこには、黒蛇商会が作ろうとしている流れの一部がはっきりと残っていた
工房を出る時、女が小さな包みを渡してきた
「これ、昼に食べてください」
ミナが慌てる
「いや、そんな」
「いいんです」
女は少しだけ笑った
「うちは今、修理では手を貸せません。でも、お腹が空いていたら話も出来ないでしょう」
レインは包みを受け取り、深く頭を下げた
「ありがとうございます」
外へ出ると、昼の日差しが通りへ落ちていた
ミナは包みを見ながら、小さく息を吐く
「なんか、重いな」
「はい」
「ただの昼飯じゃない感じがする」
「そうですね」
二人はしばらく黙って歩いた
川沿いの道では、荷車ではなく小舟がいくつか繋がれている
その光景を見たレインの足が、ふと止まった
ミナも気付く
「どうした」
レインは川を見ていた
細い川だ
大型船は通れない
だが小さな荷なら運べるかもしれない
「……レイン?」
ミナが少し警戒した声を出す
レインは答えなかった
紹介状を持つ手に少し力が入る
黒蛇商会は街道と修繕を押さえようとしている
なら、街道以外の流れを使えばどうなる
それはまだ思い付きに過ぎなかった
だが今まで何度も、レインはそういう小さな違和感から流れを見つけてきた
「ミナ」
「何」
「次の修繕所へ行く前に、少しだけ寄りたい場所があります」
「嫌な予感しかしないんだけど」
「川です」
ミナは目を細める
「まさか船を使うとか言わないよな」
レインは少しだけ笑った
「まだ言いません」
「言う気はあるんだな」
ミナは大きくため息を吐いた
それでも足を止めることはない
二人は川沿いへ向かった
その背後では、先ほどの工房から女が外へ出て、遠ざかる二人をじっと見送っていた
店の中では、体調を崩した職人がもう一度紹介状の写しを探し始めている
自分たちに出来ることは少ない
それでも、完全に何も出来ないわけではない
そんな小さな動きが、王都の片隅で静かに生まれ始めていた
川面には昼の光が揺れている
街道ほど太くもなく、乾燥場へ続く大きな流れでもない
だが水は止まらず、細い流れのまま王都の奥へ続いていた
レインはその流れを見つめながら、静かに息を吐いた
まだ道とは呼べない
けれど、止められた街道の横で、別の流れが確かに動いていた
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