第五十話 集う仲間と小金貨二枚銀貨三枚
翌朝、王都運送組合の倉庫には、夜明け前から人の気配があった
東の空が薄く白み始める頃には、荷を積み終えた運び屋たちが互いに声を掛け合いながら荷車を押し出し、石畳へ車輪が乗るたび、岩原馬が鼻を鳴らしてゆっくりと前へ進んでいく。昨日まで張り詰めていた倉庫は忙しさを取り戻していたが、誰もが足元の車輪へ何度も視線を落としていた
壊れるかもしれない
昨日まで当たり前に回っていた車輪が、今はそんな不安を抱えたものに変わっている
それでも荷は運ばなければならない
荷が止まれば商人が困り、商人が困れば市場が止まり、市場が止まれば王都の人間たちの生活まで揺らぐ
レインは帳簿を閉じ、倉庫の外へ向かう荷車を見送った
手元に残った金は小金貨二枚と銀貨三枚
昨日、修繕費の立て替えや緊急の資材購入でさらに減った
数字だけを見れば、まだ動ける
だが余裕があるとは言えない
それでも使った金に後悔は無かった
ここで金を惜しめば、もっと大きな流れが止まる
それだけは避けなければならなかった
「今日はどこへ行く」
背後からギドの声がした
振り返ると、ギドは酒瓶も持たずに腕を組んでいる
表情は眠そうなのに、目だけは冴えていた
「修繕所です」
「またか」
ギドは呆れたように笑った
「昨日も頭下げてきたばっかりだろ。まさか一晩で相手の気が変わると思ってるわけじゃねぇよな」
「思っていません」
「じゃあ何しに行く」
「もう一度、お願いしに行きます」
ギドはしばらくレインを見てから、大きく息を吐いた
「お前は本当に諦めが悪いな」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めてねぇよ」
そう言いながらも、ギドの口元には薄い笑みが浮かんでいた
ミナも荷車の横から顔を出す
「親方に怒鳴られたらどうするんだ」
「話を聞きます」
「殴られそうになったら?」
「避けます」
「そこだけ妙に強気なの、ちょっと腹立つな」
ミナは呆れたように笑い、腰の短剣を軽く確かめてからレインの隣へ並んだ
ギドは二人の背中へ声を掛ける
「いいか、レイン」
その声は低かった
「職人は金だけじゃ動かねぇ。あいつらは自分の腕で飯を食ってる。助けてやるなんて顔で行ったら、何も聞いちゃくれねぇぞ」
レインは振り返る
「分かっています」
「本当か?」
「助けるためではありません。一緒に流れを繋いでもらうためです」
ギドは一瞬だけ黙り、それから鼻で笑った
「なら行ってこい」
レインは小さく頭を下げ、ミナと共に倉庫を出た
朝の王都はまだ完全には目覚めていない
それでも西商業区へ近付くにつれて、人の声と荷車の音が増えていくはずだった
だが今日は違った
道端には車輪を外された荷車が何台も止まり、御者たちは座り込んだまま壊れた車輪を見つめている。商人たちは帳簿を握り締め、荷をどこへ回すかで怒鳴り合っていた
走れない荷車が一台あるだけで、そこから先の荷は動かない
その数が増えれば、街道そのものが鈍る
レインはその光景を見ながら歩く
昨日より悪くなっている
それがはっきり分かった
「思ったより広がってるな」
ミナが声を落とす
「はい」
「黒蛇商会ってやつ、本気で王都の足を止めるつもりか」
レインはしばらく答えなかった
道端に座り込んでいた若い運び屋が、割れた車輪を抱えたまま俯いている
その顔には怒りよりも諦めが濃かった
荷車がなければ働けない
働けなければ金が入らない
金が入らなければ修理も出来ない
その輪の中へ落ちた人間は、自力では戻ってこられない
「止めることだけが目的ではないと思います」
レインは静かに言った
「止まった人たちを、自分たちの下へ集めるつもりです」
ミナは露骨に嫌そうな顔をした
「最悪だな」
「だから先に繋ぎます」
ミナはそれ以上何も言わず、レインの歩幅に合わせた
目的の修繕所へ着くと、店先には昨日より少ない数の荷車しか並んでいなかった
仕事が無いわけではない
職人たちは動いている
だが木槌の音が弱い
車輪を削る音にも勢いが無い
工房全体に、諦めを飲み込んだような空気が漂っていた
親方は店先で細い木材を束ねていた
以前なら車輪の芯に使うことも無かったような木だ
それを手にしている親方の顔は、昨日よりさらに疲れて見えた
「また来たのか」
親方はレインを見るなり苦笑した
「今度は何を聞きたい」
レインは一歩前へ出る
そして深く頭を下げた
「お願いがあります」
親方の眉が動く
「顔を上げろ」
レインは頭を下げたまま言った
「王都の物流を止めたくありません」
工房の奥で、作業していた職人たちの手が止まった
木屑の匂いが漂う中、レインの声だけが静かに落ちる
「だから、力を貸してください」
親方はしばらく何も言わなかった
怒鳴るでもない
笑うでもない
ただレインを見下ろしている
やがて、重い息を吐いた
「簡単に言ってくれるな」
声に怒りが混じる
だがその奥にあったのは疲れだった
「入らねぇんだよ、木が」
親方は手にしていた木材を床へ乱暴に置いた
「毎朝問屋を回ってる。頭も下げた。金なら払うとも言った。それでもありませんの一言で終わりだ」
荒い息を吐き、笑う
笑っているのに、まったく笑えていなかった
「笑えるだろ。修繕屋なのに木がねぇんだ。客に車輪を作ってくれって頼まれても、俺に出来るのは頭を下げることだけだ」
ミナは黙っていた
いつものような軽口も出ない
親方は店の奥へ目を向けた
削りかけの車輪がいくつも並んでいる
だが、完成しているものは少ない
「昨日も若い運び屋が来た」
親方の声が低くなる
「嫁と子供がいるって言ってた。荷車が直らなきゃ明日から食えないってな。俺はそいつに何て言ったと思う」
レインは答えない
親方は拳を握り締めた
「直せねぇって言ったんだよ」
工房の奥で若い職人が俯いた
「俺がだ。三十年荷車を直してきた俺が、まだ走りたいって言ってる運び屋を帰したんだ」
親方の声が震える
怒りなのか、悔しさなのか、どちらともつかなかった
「それでお前は力を貸せって言う。どうやって貸せばいい。無い木で車輪を作れってのか」
レインはゆっくり顔を上げた
「だから、一緒に探してください」
親方の目が細くなる
「何をだ」
「木材の流れです」
レインは真っ直ぐ親方を見る
「黒蛇商会が押さえているのは木材そのものだけではありません。乾燥場も、修繕所も、運び屋も、商人も、少しずつ別の流れへ繋ぎ替えられています」
「だから何だ」
「こちらも繋ぎ直します」
レインの声は静かだった
「修繕所だけでは無理です。王都運送組合だけでも無理です。けれど、修繕所が壊れた車輪を見て、運び屋が止まった場所を見て、商人が荷の遅れを見て、それぞれが情報を持ち寄れば、黒蛇商会がどこを押さえているのか見えてきます」
親方は黙った
レインは続ける
「あなたたちは、車輪を直すだけの人ではありません」
その言葉に、奥で俯いていた若い職人が顔を上げる
「荷車をもう一度走らせる人です。運び屋が仕事へ戻るために必要な人です。物流を支える人です」
工房の空気が少し変わった
親方は目を逸らす
「綺麗事だな」
「はい」
レインはすぐに認めた
親方が少しだけ驚く
「綺麗事です。でも誰かが言わないと、本当に全部止まります」
ミナが横で小さく笑った
「こいつ、こういうところだけは頑固なんだよ」
親方はミナを見る
「お前は止めねぇのか」
「止めても無駄だからな」
ミナは肩をすくめる
「それに、嫌いじゃない」
その言葉を聞いた若い職人が、奥から一歩前へ出た
「親方」
親方が振り向く
「何だ」
「俺は、まだ辞めたくありません」
若い職人の声は震えていた
だが逃げなかった
「木が無いのも分かってます。金が無いのも分かってます。でも、ここで店を畳んだら、本当に黒蛇商会の思い通りじゃないですか」
親方の顔が険しくなる
「口で言うほど簡単じゃねぇぞ」
「分かってます」
「分かってねぇ」
「分かってます!」
若い職人が初めて声を荒げた
工房の中の全員が息を呑む
「俺だって昨日見ました。車輪を直せなくて帰っていった運び屋の顔を。親方が裏で拳を壁に叩き付けてたのも見ました」
親方の表情が変わる
若い職人は唇を噛み、それでも続けた
「俺は、あんな顔を見続けるために職人になったんじゃありません。荷車を走らせたいんです。自分が削った車輪で、誰かがまた仕事へ戻れるなら、それが見たいんです」
声が震える
「だから、まだ諦めたくありません」
長い沈黙が落ちた
外では遠くで荷車の音がする
工房の中では誰も動かなかった
親方は若い職人を見つめていた
怒っているようにも見える
泣きそうにも見える
やがて、深く息を吐いた
「……馬鹿ばっかりだな」
声は掠れていた
若い職人が顔を上げる
親方は乱暴に頭を掻いた
「俺も含めてだ」
それからレインを見る
「一つだけ約束しろ」
「はい」
「うちだけ助けるなんて考えるな」
親方の目は真っ直ぐだった
「苦しい修繕所は他にもある。材料が無くて困ってる工房もある。走れなくなった運び屋もいる。手を組むなら、全部まとめてだ」
レインは力強く頷いた
「もちろんです」
「なら」
親方は大きな手を差し出す
「もう一回だけ付き合ってやる」
レインはその手を両手で握った
硬い手だった
木を削り、車輪を支え、何台もの荷車を街道へ戻してきた手だった
「ありがとうございます」
「礼はまだ早ぇ」
親方は鼻を鳴らす
「木が無きゃ何も出来ねぇのは変わらねぇ。お前が本当に流れを繋げるって言うなら、こっちは壊れた車輪を全部見てやる。どこの木が悪いのか、どの車輪が危ねぇのか、見分けてやる」
若い職人が目を輝かせる
「親方」
「お前も働け」
「はい!」
その声に、工房へ少しだけ活気が戻る
職人たちが互いに顔を見合わせ、止まっていた手を動かし始める
材料は足りない
金も足りない
それでも、諦めていた空気だけは消え始めていた
その時、店の外から遠慮がちな声が聞こえた
「……邪魔だったか」
振り向くと、別の修繕職人が入口に立っていた
昨日、事故現場の近くで車輪を見ていた男だ
彼は気まずそうに工具箱を肩から下ろし、親方とレインを交互に見る
「話、聞こえちまってな」
親方は眉をひそめる
「盗み聞きか」
「聞こえる声で話してたんだろ」
男は苦笑した
だが、その笑いはすぐに消えた
「うちも木が無い。昨日、古い常連を一人帰した。あいつ、二十年走ってた運び屋なんだよ」
工具箱を握る手に力が入る
「俺は何も出来なかった」
親方は何も言わなかった
男はレインへ向き直る
「お前、本気で王都中を回るつもりか」
「はい」
「黒蛇商会が相手だぞ」
「物流を止める相手なら、誰が相手でも同じです」
男はしばらくレインを見つめ、それから小さく笑った
「変わった運び屋だな」
「よく言われます」
ミナが横で小さく吹き出した
男は工具箱を担ぎ直す
「うちにも来い。親方連中を何人か呼んでおく」
レインは深く頭を下げる
「必ず伺います」
男は頷き、少しだけ歩き出してから振り返った
「それと」
「はい」
「俺たちは金だけじゃ動かねぇぞ」
レインは静かに笑う
「分かっています」
「ならいい」
男はそれだけ言うと、街の奥へ消えていった
店の前には朝の風が吹いていた
木屑が舞い、削りかけの車輪の上を静かに滑っていく
親方はその車輪を見下ろし、ぽつりと呟いた
「一人来れば、次も来る」
レインは頷く
その言葉は、ただの期待ではなかった
流れが生まれ始めた音だった
まだ細い
まだ頼りない
それでも、昨日まで止まりかけていたものが少しだけ動いた
レインは店先に並ぶ車輪へ目を向ける
完成していないものも多い
使える木も足りない
修理を待つ荷車はまだ何台もある
だが職人たちの手は、もう止まっていなかった
「行きましょう」
ミナが横に並ぶ
「次の修繕所か」
「はい」
「今日中に全部回る気じゃないよな」
「出来るだけ回ります」
「だと思った」
ミナは呆れながらも笑っていた
二人が店を出ると、外の通りでは一台の荷車がゆっくりと動き出していた
職人が慌てて車輪の具合を確かめ、御者が不安そうに手綱を握る
車輪はまだぎこちない音を立てている
それでも荷車は止まらなかった
石畳の上をゆっくり進み、やがて朝の光の中へ出ていく
その音を聞きながら、レインは次の修繕所へ向かって歩き始めた
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます!
もしよかったら感想などいただけると、とっても嬉しいです…!




