第四十二話 買い占めと小金貨二枚銀貨九枚
狭い作業部屋の中には重たい沈黙が広がっていた
壁の向こうでは職人たちが仕事を続けているらしく、木を削る音や荷車を動かす音が絶えず聞こえてくる。それでもこの部屋だけは妙に静かで、修繕所の主人は机へ肘をついたまま何度か言葉を飲み込み、ようやく諦めたように口を開いた
「西側第二倉庫だ」
低い声だった
言いたくなかったのだろう
名前を口にした瞬間、肩から力が抜けたように見えた
ミナは目を細めたが、レインは急かさず相手が続きを話すのを待つ
主人は部屋の隅へ積まれた木材へ視線を向け、小さく苦笑した
「最初はな、運が悪いだけだと思ってたんだ。いつもの乾燥場へ行っても木が無ぇ、別の業者へ行っても木が無ぇ。どこへ顔を出しても『もう売り切れだ』って返される。一週間くらいなら誰だって不作か何かだと思うさ」
そう言って窓の外へ目を向ける
「だが二週間経っても戻らねぇ。一ヶ月経っても戻らねぇ。気付いた頃には西側の修繕所が揃って同じこと言ってたよ」
良い木が無い
ただそれだけなら愚痴で終わる話だった
だが乾燥の足りない木は割れやすく、重い荷を積んだ荷車には使えない。それを一番知っているのは、毎日壊れた車輪を直している職人たちだった
主人は深く息を吐く
「それでも仕事は来るんだ。運び屋からすりゃ荷車が無きゃ食えねぇからな。だから質が落ちると分かってても『頼むから直してくれ』って頭を下げられる」
その声には疲れが滲んでいた
何度も同じやり取りを繰り返してきたのだろう
ミナは腕を組む
「断れなかったのか」
主人は乾いた笑いを漏らした
「断ったら今度はそいつが食えなくなる。運び屋なんて荷車が止まったら終わりだぞ」
その言葉にレインは何も返さなかった
日雇い仕事を探して運搬街区を歩き回り、銅貨を数えながら明日の飯代を考えていた頃の自分を思い出していた。荷札整理を手伝い、馬小屋を掃除し、壊れた木箱を修理しても、手元へ残る金は僅かしかない。それでも今日の仕事を断れば明日は食えない。そんな日々を、自分も確かに生きてきた
主人は姿勢を変え、もう一度大きく息を吐く
「木だけならまだ我慢出来たんだ」
その一言で空気が変わる
「ところが今度は縄だ。やっと手に入ったと思ったら次は釘が無ぇ。最近じゃ車軸用の金具まで怪しくなってきやがった」
主人は窓の外で荷車を整備している職人たちを眺めながら続けた
「しかも値段まで跳ね上がってる。去年なら銀貨一枚で直せた車輪が、今じゃ銀貨二枚近く掛かることもある。縄も釘も同じだ。少し前の倍近い値段を吹っ掛けられても、買わなきゃ仕事にならねぇ」
机を軽く叩く音が部屋へ響く
「困るのは俺らだけじゃない」
主人の視線は窓の向こうで荷車へ荷を積み込む運び屋たちへ向いていた
「あいつらも同じだ。修理代が上がれば運び屋は金を失う。運賃を上げたくても契約があるから簡単には上げられねぇ。結局、自分の取り分を削って走るしかなくなる」
レインは窓の外を見つめる
事故を起こした荷車
散らばった荷
帳簿へ並んでいた西側第二倉庫
それぞれ別の出来事だと思っていたものが、少しずつ一本の流れになり始めていた
「その木は誰が押さえたんですか」
主人はしばらく黙り込んだ
言うべきか迷っている顔だった
やがて諦めたように息を吐く
「証拠を見たわけじゃねぇ。だが皆同じ名前を口にする」
部屋の空気が張り詰める
「黒蛇商会だ」
初めて聞く名前だった
だが主人がここまで言い淀る以上、ただの商会ではないことだけは分かる
ミナが顔をしかめた
「そんなにヤバい連中なのか」
主人は肩を竦める
「俺だって詳しく知ってるわけじゃねぇ。ただ気付いたら木が消えて、縄が消えて、修理に必要な物まで消え始めた。その先を辿ると、決まってあいつらの名前が出てくるんだ」
レインは机へ視線を落とした
木材を押さえられれば車輪は作れない
縄が無ければ荷を積めない
金具が無ければ荷車は直せない
派手なやり方ではない
だが物流は確実に弱っていく
「おい」
主人が声を掛ける
「何か分かったのか」
レインはすぐには答えず、机の木目を指先でなぞった
事故現場で見た割れた車輪
焼印
帳簿に並んでいた西側第二倉庫
そこへ今、黒蛇商会という名前が加わる
少しずつ繋がってきている
だが結論を出すには、まだ足りなかった
「まだです」
静かにそう答えて立ち上がる
主人は少し残念そうな顔をしたが、それ以上は何も言わなかった
修繕所を出た二人は、その日のうちに組合へ戻った
倉庫の中では定期便から戻った運び屋たちが荷を降ろし、修繕を終えた荷車が次の便へ向けて並べられている。忙しさは変わらないが、どこか以前より余裕が無いようにも見えた
帳簿を抱えたギドが二人へ気付くと、笑う代わりに無言で帳簿を差し出した
開かれたページへ目を落としたレインは、すぐにいつもと違うことへ気付く
岩原馬へ与える飼葉は先月より銀貨三枚高くなり、荷車を修理するたびに出ていく金も確実に増えていた。縄は以前の値段では仕入れられず、交換用の車輪まで値上がりしているせいで、利益として残るはずだった数字が少しずつ削られている
ページをめくるたびに、その変化ははっきりしていった
組合はまだ利益を出している
だが余裕は確実に減っている
ギドは帳簿を指で叩いた
「今は耐えられる」
静かな声だった
「だが半年続いたら話は別だ」
ミナも数字を覗き込み、小さく舌打ちする
「思ったより減ってんな」
「定期便を増やしたからな」
ギドは苦く笑う
「荷車も増えた。馬も増えた。人も増えた。組織ってのは便利だが、抱えるもんが増えりゃ出ていく金も同じだけ増える」
倉庫の中では運び屋たちが笑いながら荷を運んでいる
その姿を見つめながらレインは静かに帳簿を閉じた
乾いた音が倉庫へ響く
「黒蛇商会を追います」
即答だった
ミナがレインを見る
「気になるからじゃないんだな」
レインは小さく首を振る
「このまま資材を押さえられれば修理代はもっと上がります。運賃は簡単に上げられませんから、その分だけ組合の利益が削られていきます」
ギドも黙って頷いた
利益が減れば人は辞める
荷車は減る
定期便は止まる
ここまで積み上げてきた流れは簡単に崩れてしまう
レインは倉庫で働く仲間たちへ視線を向ける
荷を運ぶ者もいれば、帰ってきた馬の世話をする者もいる。その一人一人が、この組合を支えていた
「明日の朝、乾燥場へ向かいます」
誰も反対しなかった
もうこれは商会同士の争いではない
王都運送組合が生き残るための戦いになろうとしていた。
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