第三十八話 西商業区と小金貨二枚銀貨九枚
クラウスが去った翌日も、倉庫は朝から慌ただしかった
門が開く頃には出発待ちの荷車が並び始め、その横では夜通し走って帰ってきた便の荷下ろしが進んでいる
街道帰りの岩原馬は白い息を吐きながら水桶へ顔を突っ込み、世話役は濡れた布で首筋を拭いていた
修繕所では昨日持ち込まれた荷車の車輪が外され、木工職人が寸法を測りながら新しい部材を削っている
誰かが止まれば流れも止まる
だから組合の人間たちは朝から休む暇もなく動き続けていた
だが仕事をしていても、皆の頭から昨日の出来事は消えていなかった
契約そのものではない
クラウスが最後に残した言葉だった
興味を持たれている
あの言葉だけが妙に引っ掛かる
ミナは荷札を束ねながら顔をしかめた
「結局なんだったんだろうな」
近くで縄を巻いていた運び屋も頷く
「保証金狙いじゃなかったんだろ」
「なら何しに来たんだ」
そんな声があちこちから聞こえる
誰も答えを持っていない
だからこそ気味が悪かった
レインは帳簿へ視線を落としたまま聞いていた
クラウスの言葉
契約書
西側の倉庫
どれも繋がりそうで繋がらない
まるで霧の向こうに何かあるのに輪郭だけ見えないような感覚だった
その時だった
入口の扉が勢いよく開く
冷たい風が倉庫へ流れ込む
そこへ飛び込んできたのは定期便帰りの若い運び屋だった
額には汗が浮かび、肩で息をしている
余程急いで戻ってきたのだろう
「レインさん!」
声を上げながら真っ直ぐこちらへ走ってくる
周囲の運び屋たちも何事かと振り返った
男は机へ手をついて息を整える
「面白い話を聞きました」
ミナが呆れた顔をする
「お前、その言い方やめろ」
だが男は構わず続けた
「西商業区です」
その名前を聞いた瞬間、レインの手が止まる
クラウスが持ち込んだ契約も西側だった
偶然とは思えない
「続けてください」
男は頷く
「向こうの積載場で聞いた話です」
倉庫の中が少し静かになる
近くにいた運び屋たちも自然と耳を傾け始めていた
「最近、西側の商会同士が揉めてるらしいんです」
ミナは首を傾げる
「商会なんて毎日揉めてるだろ」
「今回は少し違います」
男は周囲を見回した
誰かに聞かれないようにする癖なのだろう
声が自然と小さくなる
「運送路の取り合いです」
レインの目が細くなる
王都へ入る荷には流れがある
どの街道を通り、どの倉庫へ入り、誰が扱うのか
表向きは自由だ
だが長い年月を掛けて出来上がった縄張りも存在する
そして今、その均衡が崩れ始めているらしい
「原因は分かりますか」
レインが聞く
男は首を振った
「そこまでは」
だが少し考えたあと続ける
「ただ皆が同じことを言ってました」
倉庫の空気が少し変わる
男は唾を飲み込んだ
「王都の物流が変わるかもしれないって」
誰かが小さく息を呑む
ミナも眉をひそめた
だがレインは窓の外を見る
街道へ出ていく荷車の列が見える
いつもと同じ光景だった
積まれている荷も変わらない
御者の顔も見慣れたものばかりだ
それでも昨日までとは違って見えた
クラウスは組合を試しに来た
なら、その理由がある
わざわざ時間を使い、人を動かし、契約書まで用意したのだ
その先に何も無いはずがなかった
レインは帳簿を閉じる
乾いた音が机へ響く
その音を聞いたミナが嫌そうな顔をした
「その顔やめろ」
「どの顔ですか」
「面倒事見つけた時の顔だ」
周囲から苦笑が漏れる
ギドも呆れたように鼻を鳴らした
「どうせ行くんだろ」
レインは小さく笑う
「行きます」
即答だった
ミナは額を押さえる
「だと思った」
倉庫の空気が少しだけ軽くなる
誰も反対しない
ここにいる人間は知っている
レインがそう決めた時は、大抵もう止まらない
窓の外では荷車が街道の先へ消えていく
その先は見えない
だが西側で何かが動いている
クラウスが現れた理由も、その中にある気がした
なら見に行くしかない
流れを読むために
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