第三十七話 流れを読む者と小金貨一枚銀貨九枚
倉庫の中へ重たい沈黙が落ちる
窓から差し込む朝日だけが少しずつ床を照らし、その光は机の上へ広げられた契約書の端をゆっくり白く染めていた
朝便へ出る準備をしていた運び屋たちも動きを止めている
木箱を抱えたまま立ち尽くす者がいる
荷車へ縄を掛けていた途中で手を止めた者もいる
修繕所側では金槌を握ったままの職人がこちらを見ていた
誰も声を出さない
ただ倉庫の中央で向き合う二人を見ている
クラウスはレインを見つめていた
先ほどまでの柔らかな笑顔はもう無い
代わりにそこにあるのは、相手の価値を測ろうとする商人の目だった
「なるほど」
静かな声だった
男はゆっくり息を吐く
「そこまで調べましたか」
否定はしない
それだけで十分だった
運び屋たちの間にも小さなざわめきが広がり始める
ミナも腕を組んだまま眉をひそめていた
ギドだけは黙っている
だがその目は、最初からこうなることを恐れていた男の目だった
「保証金が目的じゃないんですね」
レインが言う
クラウスは小さく笑った
だがその笑いには温度が無い
「保証金程度でここまで動きませんよ」
倉庫の空気が少しだけ揺れる
その言葉を聞いた瞬間、ミナにも分かった
少なくとも相手は保証金を騙し取るためだけに来たわけではない
もっと別の目的がある
クラウスはゆっくり倉庫の中へ視線を流した
修繕所では昨日まで動けなかった荷車へ新しい車輪が取り付けられ、その横では街道帰りの岩原馬が世話役に身体を拭かれている
さらに奥では朝便へ積み込む荷の確認が途中で止まり、集まった運び屋たちがこちらの様子を窺っていた
少し前まで余り仕事を奪い合っていた人間たちが、今では一つの流れの中で働いている
その光景を見ながら、クラウスは小さく頷いた
「あなた方は急に大きくなり過ぎた」
誰も反論しない
事実だった
東部大橋を動かした時には数人しかいなかった
だが今では違う
定期便が走り、帰り便まで埋まり、修繕所まで抱えるようになったことで、王都運送組合は誰も無視出来ない規模へ変わり始めている
「だから興味を持たれたんですよ」
クラウスは静かに言う
レインは黙って聞いていた
「誰にですか」
その問いに、クラウスは少しだけ笑う
だが答えない
代わりに窓の外へ目を向けた
朝便の荷車が街道へ出ていくところだった
荷を満載した荷車がゆっくり進み、その後ろを別の便が続いていく
止まることなく流れていくその光景を見ながら、クラウスは小さく息を吐いた
「一つだけ教えましょう」
倉庫の中が静かになる
「あなたは、自分で思っているより目立っています」
その言葉にミナが顔をしかめる
だがレインは何も言わない
クラウスは続けた
「流れを作る人間は少ない」
視線がレインへ戻る
「そして流れを作れる人間は、もっと少ない」
それだけ言うと男は契約書を畳んだ
もうこの場に用は無いと言わんばかりだった
「正直、試すつもりでした」
ギドの目が細くなる
ミナも表情を険しくした
だがクラウスは気にしない
「どこまで見えているのか」
契約書を懐へしまう
「それが知りたかった」
そして初めてレインを正面から見る
今までの商人の顔ではない
同じ盤面に立つ相手を見る顔だった
「予想以上でした」
その言葉だけを残し、クラウスは踵を返す
護衛たちも続く
扉が開く
朝の光が倉庫の中へ流れ込み、男たちの背中を照らしたあと、ゆっくり閉じられる
しばらく誰も動かなかった
やがてミナが大きく息を吐く
「なんなんだあいつ」
怒りとも困惑ともつかない声だった
ギドも苦い顔をする
「ろくでもねぇのだけは分かる」
その会話を聞きながら、レインは窓の外へ視線を向けていた
去っていくクラウスの背中を見ているわけではない
さらに先だった
朝便の荷車は既に街道へ出ている
積まれている荷は変わらない
荷車も変わらない
岩原馬も変わらない
だが、その流れはもう昔とは違っていた
銀貨一枚を握り締めながら南へ向かった頃、自分が相手にしていたのは崩れた街道や届かない荷物だった
だから数字を集めれば良かった
流れを読めば良かった
だが今は違う
流れそのものが大きくなったことで、それを利用したい人間も現れ始めている
邪魔だと思う人間も現れ始めている
クラウスは、その最初の一人に過ぎなかった
レインは静かに帳簿を閉じる
その音は小さい
だが胸の奥では別の音がしていた
もっと大きな流れが動き始める音だった
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