第三十六話 証拠と小金貨一枚銀貨九枚
倉庫の中は静まり返っていた
朝便へ出るはずだった運び屋たちも動けないまま立ち尽くしている
木箱を抱えたままの男がいる
荷車へ積み込む途中だった縄を握ったまま止まっている男もいる
ついさっきまで響いていた修繕所の金槌の音まで消えていた
誰もが見ていた
倉庫の中央に立つレインとクラウスを
窓から差し込んだ朝日が机の上へ広がり、その光が契約書の端を白く照らしている
その中でクラウスだけは笑顔を崩さなかった
だがレインは見ていた
机へ置かれた手袋の指先が、一瞬だけ止まったことを
ほんの僅かな動きだった
普通なら気付かない
だが昨夜から数字と向き合い続けていたレインは見逃さなかった
「興味がありますね」
クラウスは静かに言った
「聞かせてください」
その声は落ち着いている
だが先ほどまでの余裕は薄れていた
ミナもギドも黙っている
運び屋たちまで息を潜めていた
レインは契約書を机へ置く
「まず一つ聞きます」
「どうぞ」
「この契約が成立した場合、最初の搬送はどこから始まりますか」
クラウスは即答した
「王都西側第二倉庫です」
「香料保管倉庫ですね」
「その通りです」
レインは小さく頷いた
そして窓の外へ視線を向ける
朝便が出発する時間はもう過ぎている
それでも誰も文句を言わない
全員が続きを待っていた
「ですが昨日、私はその倉庫を調べました」
その瞬間、クラウスの目が僅かに細くなる
ミナは思わず顔を上げた
そんな話は聞いていない
ギドも同じだった
だがレインは続ける
「正確には調べてもらいました」
組合になった今は違う
昔みたいに全部を一人でやる必要はない
西側へ向かう定期便の運び屋へ頼み、帰りに倉庫を見てきてもらった
「倉庫はありました」
クラウスは黙っている
「管理人もいました」
まだ黙っている
「ですが香料はありませんでした」
倉庫の空気が揺れる
後ろの方で誰かが小さく息を呑んだ
ミナも腕を組んだまま眉を寄せる
香料商会の大型契約だ
それなのに荷が無い
レインは帳簿を開く
何度も開かれたページは端が擦り切れていた
「契約書に書かれている搬送量なら、少なくとも数日前から荷が集まり始めていなければおかしい」
指が数字を追う
「ですが倉庫は空だった」
クラウスはそこで小さく笑った
「それだけですか」
余裕を取り戻そうとしている
だがレインは首を振った
「いいえ」
静かな声だった
「本当におかしかったのは別です」
そう言いながら契約書を持ち上げる
上質な羊皮紙だった
高価なインクも使われている
文章も整っている
契約内容も丁寧だ
普通なら誰も疑わない
だがレインの指は契約書の右下で止まった
商会同士の契約書なら必ず印が押される場所だった
荷札しか見ない運び屋なら見落とすかもしれない
だがレインは違う
荷札も契約書も帳簿も見続けてきた
だから分かった
そこだけが妙に綺麗なのだ
本来なら印が残る場所に何もない
まるで最初から押されていないみたいに
「商会契約なら仮契約でも痕跡が残ります」
レインは契約書を机へ置く
「ですが、この契約書にはそれがありません」
クラウスは何も言わない
否定もしない
だからこそ周囲の運び屋たちも気付き始める
おかしいのだ
銀貨百二十枚――いや、小金貨一枚と銀貨二十枚もの大仕事だというのに、その契約書には肝心の商会の痕跡が残っていない
ミナの顔色が変わる
ギドも腕を組んだまま目を細めた
そしてレインは最後に静かに言った
「つまりこの契約は、香料商会から正式に出されたものじゃない」
沈黙が落ちる
誰も動かない
倉庫の外では朝便へ向かう荷車の車輪が石を踏む音だけが遠く聞こえていた
その音が消える頃になっても、クラウスは答えなかった
やがて男はゆっくり息を吐く
それは負けを認めたようなため息ではない
むしろ何かを切り替えた人間の呼吸だった
そして次の瞬間、今まで一度も見せなかった冷たい目でレインを見た
その顔からは、もう笑顔が完全に消えていた
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