第三十二話 違和感と小金貨一枚銀貨九枚
倉庫の空気が少し重くなる
だがクラウス自身は気付いていないのか、それとも気付いた上で無視しているのか、相変わらず柔らかな笑みを崩さなかった
「もちろん無理にとは言いませんよ」
そう言いながら懐から革製の書類入れを取り出し、一枚の契約書を机へ置く
羊皮紙は上質だった
個人運び屋が普段使う安物とは明らかに違う
「内容だけでも確認してみてください」
レインは黙って契約書へ目を落とす
契約書には搬送で必要になる条件が細かく書き込まれていたが、一通り目を通しても不自然な金額や無茶な日程は見当たらず、むしろ大手商会が用意した正式な契約書らしく丁寧に整えられているように見えた
ミナは横から覗き込みながら眉を寄せる
「思ったより普通だな」
「普通ですね」
レインも短く答える
その反応にクラウスは満足そうに頷いた
「だから良い契約なんですよ」
だがその瞬間だった
ギドが机へ肘をつきながら低く口を開く
「保証金は」
クラウスの視線が向く
「はい?」
「どこへ預ける」
倉庫の空気が少しだけ変わる
先ほどまで作業していた運び屋たちも、修理途中の荷車へ工具を置いたままこちらを見始め、帳簿を確認していた者まで手を止めるせいで、倉庫全体の意識が自然と二人の会話へ集まり始めていた
クラウスはすぐに笑顔へ戻る
「香料商会ですよ」
「商会名は」
「契約時に紹介します」
ギドの眉が僅かに動く
だがクラウスは気付かないふりを続けた
「まだ正式契約前ですので」
ミナは首を傾げる
「そんなもんなのか?」
ガルドも腕を組んだまま考え込む
商会同士の契約など経験がない以上、違和感はあっても断言は出来ない
しかしギドだけは黙ったままクラウスを見ていた
三十年以上この街区で生き残ってきた男の目だった
やがてクラウスは話を切り上げるように立ち上がる
「返事は明日で構いません」
そして倉庫の中をもう一度ゆっくり見回した
壊れた荷車が修理され、運び屋たちが次の便へ向けて慌ただしく動き回り、その流れを支える帳簿まで整い始めている今の光景は、確かに少し前の寄せ集め集団とは別物だった
クラウスは満足そうに頷く
「本当に面白い組織ですよ」
そう言い残して倉庫を出て行った
扉が閉まり、足音が遠ざかる
しばらく誰も口を開かなかった
最初に沈黙を破ったのはミナだった
「……で?」
レインを見る
「どう思う」
だがレインは答えない
契約書へ視線を落としたまま何かを考えている
その横で、ギドだけが入口を睨んでいた
「気に入らねぇ」
低い声だった
「何がだ?」
ガルドが聞く
ギドは契約書を指で叩いた
「話が綺麗過ぎる」
倉庫の空気が静かに張り詰める
「銀貨百二十枚の仕事を、自分から他人へ譲る奴なんざ見たことねぇ」
レインはそこで初めて顔を上げた
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