第十三話 妹の熱と銀貨二十六枚
工房を出た頃には、雨が少し弱まっていた
王都の夜はまだ終わっていない
工房区では炉の火が赤く揺れ続け、どこかの建物では今も鉄を打つ音が響いているせいで、夜というより“仕事の続き”みたいな空気が街全体へ残っていた
けれど、大通りから一本外れるだけで景色は変わる
石畳を急いでいた人影は減り、雨避け布を垂らした小さな店だけが、閉じ切らない灯りを静かに通りへ漏らしていた
ミナは工房でもらった革袋を、歩きながら何度も触っていた
中には銀貨十五枚
妹の薬代だ
普通の運び屋なら、しばらく仕事を休める額ですらある
それなのにミナの表情は晴れない
むしろ宿へ近付くほど足は少しずつ速くなっていき、その背中からは“早く無事を確認したい”という焦りが隠し切れていなかった
レインはそれを横目で見ていた
「宿は遠いんですか」
「遠くはない」
ミナは短く返したあと、小さく続ける
「……でも早く戻りたい」
その声だけ少し弱かった
レインは何も言わない
ただ歩幅だけを少し合わせる
王都南側の外れには、短期滞在者向けの安宿が集まっていた
工房区の日雇い職人や、地方から流れてきた冒険者が多いのだろう
建物は古い
壁板は雨を吸って黒ずみ、入口の扉も何度補修したのか分からないくらい歪んでいる
それでも人が住んでいる匂いはした
湿った木の匂いと、安い酒、それに煮込み料理の残り香が混ざっていて、寒さを凌ぐためだけに集まった人間たちの生活が、そのまま建物へ染み付いているみたいだった
ミナは慣れた様子で宿へ入る
「おばちゃん、戻った!」
受付の奥から年配の女が顔を出した
「あんた遅かったねぇ」
「ちょっと色々あって……」
そう返しながら、ミナは革袋を握ったまま聞く
「リルは?」
「起きてるよ
熱も少し下がった」
その瞬間だった
ミナの肩から、目に見えるくらい力が抜けた
多分、街道を走っている間もずっと怖かったのだろう
戻った時には、もっと悪くなっているんじゃないかと
ミナは階段へ向かいかけ、途中で止まる
そして振り返った
「……レイン」
「なんです」
「その、飯くらいなら奢る」
レインは少し考える
「返済中ですよね」
「うっ」
ミナが言葉に詰まる
「いやでも飯くらいは……」
「なら安い店でお願いします」
「そこで譲るんだ……」
ミナは呆れたみたいに笑った
二階の部屋は狭かった
ベッド一つと小さな机だけ
窓際には薬瓶が並び、部屋の中には薬草を煮た匂いが薄く残っている
そして、そのベッドの上で。
小さな少女が毛布へ包まっていた
「……姉ちゃん?」
弱々しい声だった
年齢は十歳くらいだろうか
ミナより髪が長い
だが顔色はまだ悪く、熱のせいか頬が赤い
ミナはその顔を見た瞬間、ようやく本当に力を抜いた
「ただいま」
街道にいた時とは全然違う声だった
勢いも強がりもなく、ただ安心した人間の声だった
少女はそこで、入口に立つレインへ気付く
「……だれ?」
「あー……」
ミナが少し困った顔になる
「運び屋」
「雑ですね」
レインが小さく返す
少女はきょとんとしていたが、少ししてから笑った
「変な人」
「よく言われます」
その返答にミナが吹き出す
狭い部屋の中へ、小さな笑い声が広がった
レインはその光景を見ながら、静かに部屋を見回していた
薄い毛布
古い机
並んでいる薬瓶も安価なものばかりだ
生活はかなり苦しいのだろう
だからミナは、あそこまで必死だった
少女は小さく咳をしたあと、ミナを見る
「……お仕事、できた?」
「できた」
ミナは笑う
「だからもう大丈夫」
その言葉を聞いた瞬間、少女は安心したように目を閉じた
その顔を見ながら、ミナもようやく息を吐く
三日間ずっと張り詰めていたものが、そこで初めて少しだけ緩んだのだろう
レインはその様子を見ながら、無意識に革袋へ触れていた
銀貨二十六枚
増えた金だ
いつもなら、それだけで十分だった
けれど今は違う
この部屋にとって銀貨十五枚がどれだけ重いのかを見てしまったせいで、数字だけだったはずの金へ、初めて“誰かが生きるための重さ”が混ざり始めていた
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