第十一話 灰牙と銀貨十四枚
魔獣が荷車へ爪を叩きつけた瞬間、積まれていた木箱が大きく揺れ、縄で固定されていた鉱石箱が鈍い音を立てながら横へ滑った
もし縄が一本でも緩んでいたら、そのまま荷崩れを起こしていただろうが、レインが何度も締め直していた固定具は辛うじて耐え切り、軋む音だけを残して踏み止まる
ただ、その衝撃で岩馬が怯えた
濡れた巨体を震わせながら鼻を鳴らし、前脚で地面を荒く掻き始める
街道用の岩馬は多少の魔獣程度では逃げ出さないよう訓練されているはずだったが、今は疲労も限界に近いのだろう
そこへ突然、森の中から魔獣が飛び出してきたせいで、完全に警戒状態へ入ってしまっていた
「っ、落ち着け!」
ミナが咄嗟に手綱を掴む
だが次の瞬間、森の奥でまた枝が折れた
音は一つじゃない
しかも移動が速い
木々の間を滑る気配が少しずつ位置を変えていることから、向こうも様子見ではなく、包囲するために動き始めているのだろう
「……群れか」
ミナの顔付きが変わる
単体ならまだいい
だが群れは面倒だった
森の中では視界が悪いせいで、一度囲まれると荷車を守りながら動くのが難しくなる
飛び出してきた魔獣は低く唸りながらこちらを睨んでいた
灰色の毛並みは雨で濡れて細く見えるのに、その下では異様な筋肉が蠢いている
普通の獣より身体が低い分、飛び込みも速い
「灰牙かよ……」
ミナが嫌そうに吐き捨てる
「知ってるのか?」
後ろでリュカが聞いた
「腹減ってる時は執念深い魔獣 しかも一頭が止めても、別方向から噛みに来る」
その説明の間にも、森の奥では複数の気配が位置を変え続けていた
ミナは短剣を握り直す
まともに戦えば勝てる
けれど問題はそこじゃない
荷車がある以上、動きを止められた時点で終わる
だから視線を向けた
レインが何を見ているかを
だがレインは灰牙を見ていなかった
視線が動いているのは、魔獣が飛び込みやすい場所と、逆に勢いを殺される場所の確認だった
左側には雨で濡れた岩場がある
表面へ薄く泥が乗っているせいで、人間でも踏み込みを誤れば滑るだろう
その一方で、荷車側は木々の間隔が狭い
つまり群れが一気に回り込むには少し窮屈すぎる
なら正面の一頭だけを誘導出来れば、残りはすぐ飛び込めない
そこまで確認してから、レインは静かに口を開いた
「ミナ」
「なんだ」
「正面だけ押さえられますか」
「まぁ出来るけど」
「倒さなくていいです 左へ流してください」
ミナの口元が少し上がる
「……なるほど」
レインは戦えない
だが、戦う場所を選ぶのが上手い
それは盗賊相手の時も同じだった
「行くぞ!」
ミナが泥を蹴る
その瞬間、灰牙も飛び出した
牙を剥きながら一直線に突っ込んでくる
速い
だがミナは真正面で受けなかった
半歩だけ身体をずらし、短剣で鼻先を浅く切る
灰牙が怒ったように唸る
そのままミナを追って方向を変えた
「そうそう、こっち来い!」
ミナが岩場側へ飛び込む
灰牙も勢いのまま追う
次の瞬間、濡れた岩へ踏み込んだ前脚が大きく滑った
「ギャウッ!?」
体勢が崩れる
そこへミナの蹴りが横から入った
灰牙の身体が岩へ叩きつけられる
その衝撃音を聞いた瞬間、森の奥の気配が止まった
群れ側も理解したのだろう
この地形では、飛び込むほど不利になる
レインはその隙を逃さなかった
「今です、動かします」
「はぁ!? まだいるぞ!」
「囲まれる前に抜けます」
既に岩馬は動き始めていた
荷車が軋みながら前へ進む
群れはまだ森の奥にいる
だが飛び出してこない
雨で滑る岩場と、狭い木々の間で突っ込む危険を、向こうも理解したのだろう
「うわ、ほんと逃げ足だけは早いなアンタ!」
「戦わない方が安いので」
「その発想どうなってんだよ!」
ミナが荷車へ飛び乗る
その後ろでは、滑った灰牙が低く唸りながらこちらを睨んでいた
だが追ってこない
濡れた森の中を、荷車は半ば逃げるように進み続けた
それからしばらくの間、誰も余計なことを喋らなかった
岩馬の荒い呼吸と、車輪が泥を削る音だけが続く
森へ入った時はまだ昼だったはずなのに、厚い雲のせいで空はもう夕方みたいに暗い
その暗さの中を進み続けていると、時間の感覚まで狂ってくる
ミナは荷台へ身体を預けながら、大きく息を吐いた
「……まだ着かねぇのかよ」
「もう少しです」
レインは短く返す
だが、その声は今までより少しだけ硬かった
ミナはその違和感に気付く
「なんだ?」
「匂いが変わりました」
「匂い?」
レインは前を見る
「雨の匂いが薄い」
言われてみれば、確かにそうだった
森へ入ってからずっと湿った土と雨の匂いばかりだった空気へ、今は微かに違う臭いが混ざっている
煙だ
火と、人の生活の匂い
それはつまり、森を抜けるということなのだろう
そして次の瞬間、木々の隙間の向こうへ、ぼんやりと橙色の光が見えた
リュカが目を見開く
「……あれ」
森を抜けた先。
雨に煙る平地の向こうで、王都外縁の灯りが静かに揺れていた
石壁沿いへ並ぶ街灯の光は、雨の膜越しだと滲んで見えるせいで、まるで暗闇の中へ細い線を引いているみたいだった
ミナがその場で力を抜く
「はぁぁぁぁ……着いたぁ……」
その声には、心底疲れ切った人間特有の重さが混ざっていた
リュカも同じだった
壊れた荷車 崩れる街道 魔獣の群れ
途中で何度も終わったと思ったのだろう
それでも、まだ荷は残っている
契約も切れていない
レインは雨に濡れた帳簿を軽く押さえながら、小さく息を吐いた
そして静かに呟く
「……間に合いましたね」
その言葉と同時に、遠くで王都の鐘が鳴った
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