4. 隠された一族の愛娘
自室に戻り、重厚な扉を閉めた。
その瞬間、影の中からルシフェルが実体化し、赤い瞳を細めて私の背後に立つ少女を見下ろした。
「主。……あんな震えてるだけの小娘、何に使うんだ? 戦力外だろ」
ルシフェルの声には、隠そうともしない落胆が混じっていた。
対して、私の後ろに控えるライラは、表情一つ変えずにルシフェルの視線を受け流した。その佇まいは、数分前まで洗濯物を抱えていた下働きの少女のそれではない。
「黙りなさい、ルシ。暴力が必要な場面は貴方がいれば十分よ」
私はベッドに腰掛け、ライラを真っ直ぐに見据えた。
「今は、この屋敷の全体を正確に把握する味方が必要なの。……ライラ。貴女、さっき廊下ですれ違った第三騎士団の男。彼が腰に下げていた鍵の枚数を言いなさい」
「三枚です。左の一枚は銀色で少し錆びており、真ん中は真鍮製。右の一枚には……この屋敷の『禁忌庫』の紋章が刻まれていました。」
淀みのない、静かな声。
感情を排し、ただ事実だけを抽出するその話し方は、長年仕えてきた老執事のような落ち着きを払っていた。
「……ほう。そこまで見ていたのか」
ルシフェルが、今度は驚きを隠さずに目を細める。
「ええ。一度視界に入ったものは、嫌でも記憶に張り付きますので。……お嬢様、私を筆頭侍女に据えたのは、この才能を使えということですね?」
「察しがいいわね。……一ヶ月後、この屋敷にアクシアという女が来るわ。彼女はローゼンバーグ家の証__桃色の髪と眼を持っているわ。彼女が来たら私はもう終わり。だから彼女が動く前に、貴女にはこの屋敷の全使用人の『動線』と『弱み』を完璧にマップ化してもらう。……できるわね?」
「問題ありません。……お嬢様、まずは着替えを。パジャマで策を練るのは、公女として効率がよろしくありませんわ」
ライラはそう言うと、いつの間にかルシフェルの背後に回り込み、音もなくクローゼットを開けていた。
「なっ……いつの間に後ろに……!?」
「……主。こいつ、……ただの人間じゃないな」
魔王すら出し抜く、音のない歩法。
そして、すべてを観測する冷徹な瞳。
アモリアの平和な空気に溶け込み、その才能を隠し続けてきた『一族』の末裔。
私は、淡々と着替えの準備を始めるライラの背中を見て、内心で満足げに口角を上げた。
ライラside
なぜ、お嬢様は分かったのだろう。
洗濯物の山を抱え、冷たい石床を磨き続けてきた私の中に、消し去れない『血』の残り香が漂っていることを。
私の家系は、かつてこの国がアモリアと名乗る以前から、闇の中で情報の選別を担ってきた。
一度視界に捉えたものは、網膜に焼き付いて離れない。
周囲の魔力や感情の揺らぎは、不快なノイズとして鼓膜を震わせる。
そして、他者の意識の隙間に滑り込む歩法は、教わらずとも産声を上げた時から身についていた。
けれど、この平和な『アモリア』に、そんな力は不要だった。
一族は没落し、私は生き延びるためにその牙を隠し、ただの無能な侍女として泥水を啜る日々を送っていたはずなのに。
「……ライラ。こっちへ来なさい」
五歳の少女が持つはずのない、深淵を覗き込むような冷徹な瞳。
それだけで、私の背筋に心地よい戦慄が走った。
影から這い出してきた、あの禍々しい赤眼の男――『魔王』ですら、お嬢様の道具に過ぎない。
(……この方は、今の私に『仕事』を求めていらっしゃる)
私は震えを抑え、お嬢様の前に跪いた。
「……三枚です。左の一枚は銀色で少し錆びており、真ん中は真鍮製の鍵、そして『禁忌庫』の紋章のついた鍵でございます」
淀みなく答えながら、私は自分の脳が、これまでにない速度で再起動していくのを感じていた。
廊下ですれ違った騎士の歩き方の癖、父公爵の呼吸の乱れ、壁の裏に仕掛けられた不自然な魔導具。
セレスティーナ様はアクシアという女の話をしだした。思考が共有される。彼女は本当に五歳なのだろうか。
これまで「邪魔なノイズ」として処理していたそれらが、お嬢様の一言で、鮮明な『戦略地図』へと書き換えられていく。
「……お嬢様。まずは着替えを。パジャマで策を練るのは、公女として効率がよろしくありませんわ」
私は立ち上がり、音もなく影の男の背後を通り抜ける。
男が驚愕に目を見開く気配がしたが、無視した。
今の私にとって優先すべきは、この唯一、私を見出した主の利益だけだ。
クローゼットを開け、今日一日を戦い抜くための最適なドレスを選び抜く。
「お嬢様、失礼いたします。……お着替えの間に、現在の屋敷の状況をご報告いたします。……お父様の書斎、左から三番目の引き出しに、王家には秘匿されているはずの『裏金』の出納帳がございます。……それから次男のジュリアン様、あの方は最近、屋敷の外の『情報屋』と接触されていますわ。……最後に、先程解雇されたマーサ。あの女は既に、アクシア様という方の関係者と、秘密裏に文通を始めていました」
私の報告を、お嬢様は淡々と、満足げに聞き流している。
「いいわ、ライラ。……想像以上の出来ね」
お嬢様の小さな手が、私の荒れた指先に触れた。
「一ヶ月後、そのすべてを『材料』にして、この屋敷を私の支配下に置くわよ。……ついて来られるかしら?」
「……もちろんでございます。お嬢様」
私は恭しく頭を垂れた。
一族の愛娘として、この才能を呪い続けた日々への、これが本当の「さようなら」。
公女セレスティーナ。
このお方なら、一族を没落させたあの男に復讐できるかもしれない。
セレスティーナside
(……アクシアがこの屋敷に来たのは、やはりマーサの差し金だったのね)
ライラの報告を聞きながら、私は思考の海に深く潜る。
五回繰り返した回帰の中で、ライラは二度、ある男に刃を向けたことがある。
それは毎回、彼女が私の専属侍女になった後のことだ。
彼女は復讐に囚われ、この『アモリア』の頂点――皇帝にまで手を出してしまった。
一族を没落させた仇。その怨念に突き動かされた彼女は、無謀な特攻の果てに、いつも私の目の前で無惨に殺されていった。
(……死ぬには、あまりにも惜しい才能だわ)
六度目の人生を自ら終わらせた私が言うのも滑稽だけれど。
彼女のその『眼』と『耳』、そして存在を消す歩法は、復讐の果てに散らすにはあまりにも高価すぎる。
私は、ライラが選んだ勝負服とも言えるドレスに袖を通す。
鏡に映る五歳の私は、依然として幼く、無力に見える。
けれど、その背後には最強の魔王が、そして隣には絶望を知る諜報員が控えている。
「ルシフェル、ライラ」
私の呼びかけに、影と、実体とが同時に震えた。
「まずは一ヶ月後、アクシアという『不確定要素』を完璧に迎撃する盤面を作るわよ。ライラ。貴女の復讐は、私が肩代わりしてあげる。だから貴女は、私のためにその命を使いなさい」
「……っ。……ハッ、仰せのままに、我が主よ」
ライラが跪く。
彼女の復讐の対象である皇帝すら、私の生存戦略の盤上にあるただの駒に過ぎない。
その日の夕食。
食堂(朝餐の席)には、朝と同じく、父・ヴィンセントと兄二人が揃っていた。
朝の「パジャマ事件」の余韻か、食卓には重苦しい沈黙が流れている。
それを破ったのは、父の、事務的で冷徹な一言だった。
「……お前たち。一つ伝えておくことがある」
私は無言で、スープを口に運ぶ手を止めた。
「アクシアという少女を、予定を早めて引き取ることになった。早ければ、二週間後にはこの屋敷に到着する。……お前も、姉として恥じぬよう準備をしておけ」
「…………」
カトラリーが皿に当たる、乾いた音。
ジュリアンが「え、二週間!? 早すぎだろ」と声を上げるが、私の耳には届かない。
(……二週間。一ヶ月ではなく、たったの二週間……!)
アクシアがこの屋敷に来たのは、五回とも一ヶ月後だったはず。
運命が、加速している。
私の覚醒に呼応するように、あの「幸せなお姫様」という地獄の物語が、私を逃がさじと牙を剥き始めたのだ。
「……承知いたしましたわ、お父様」
私は、感情の消えた瞳で父を見据えた。
(……いいわ、アクシア。受けて立つわよ)
一ヶ月あるはずだった準備期間が、半分に削られた。
もはや、一秒の猶予も残されていない。
私は隣に控えるライラに、視線だけで「予定を切り上げる」と合図を送った。




