3. さようなら。
「……かもね。でも、私は貴女を今ここで殺せるわ?」
感情の消えた瞳で、私は淡々と告げた。
廊下の気温が、一気に氷点下まで下がったかのような錯覚。マーサの喉元に、実体のない刃が突きつけられていることに、彼女はまだ気づいていない。
「……何の騒ぎだ」
背後から、低く、重苦しい声が響いた。
食堂から戻ってきた父、ヴィンセント・ローゼンバーグが、眉を顰めてそこに立っていた。
「旦那様! ヴィンセント様!!」
マーサは救いの神を見つけたかのように、這いつくばって父の足元に縋り付いた。
「お聞きください! セレスティーナ様が、乱心されています! 長年仕えてきた私を、今ここで殺すと……! どうか、どうかこの出来損……っ、セレスティーナ様にお仕置きを!」
マーサの口元が、一瞬だけ歪んだ。
いつもの父なら、私の言い分など聞きもせず、ただ不快そうに私を叱咤し、マーサの言葉を「正当な教育」として受け入れただろう。
だが。
「……うるさい。離れろ」
ヴィンセントは、足元で泣き喚くマーサに視線すら向けない。
彼は、冷徹な品定めの目で、パジャマ姿のまま泰然と佇む私をじろりと見下ろした。
朝食の席で見せた、完璧な作法。淀みのない正論。
父にとっての人間は、最初から二種類しかいない。
『利用価値のある駒』か、『無能なゴミ』かだ。
ローゼンバーグ家当主、ヴィンセントとはそういう人間なのだ。
「……その程度の子供に脅されて取り乱すとは、筆頭侍女も焼きが回ったな。セレスティーナ、そいつをどうしようがお前の勝手だ。……好きにしろ」
(今までの会話を聞いていたのね。)
「だ、旦那様……!? 何を、仰って……っ」
マーサの顔から、血の気が一気に引いていく。
昨日まで自分を守っていたはずの『公爵家の権威』という盾が、音を立てて粉々に砕け散った。
「……期待を裏切るなよ、セレスティーナ。使える駒なら、いくらでも用意してやる」
父はそれだけ言い残すと、背を向けて去っていった。
娘の変貌を喜ぶのではない。ただ、ようやく『投資する価値』を見出したに過ぎない。その事務的な冷酷さに、私は内心で冷たく笑う。
(……相変わらず、反吐が出るほど分かりやすい人)
廊下に取り残されたのは、腰を抜かして震えが止まらないマーサと、私。
そして、影の中で愉悦に目を細めるルシフェル。
「……さて。お父様から『許可』は出ましたわ」
私はゆっくりと、獲物を見下ろすような瞳でマーサに歩み寄る。
床に這いつくばる彼女を見下ろし、私は宣告した。
「筆頭侍女マーサ。貴女を、今日限りでローゼンバーグ家の筆頭侍女から解任します」
「な……っ!? お、お嬢様……!?」
「さようなら、マーサ。……今まで通りの、傲慢な貴女。今の貴女に、私の『道具』としての使い道なんてないわ。……さっさと荷物をまとめて、出て行ってちょうだい」
冷たく突き放す私の言葉に、マーサは顔を歪ませ、縋り付くように声を上げた。
「お嬢様、セレスティーナお嬢様!? わたくしが貴方様を、赤ん坊の頃から育てて差し上げたことを忘れたのですか? 誰が貴女のお世話を……っ! お願いです、それだけは、それだけはご容赦を――!」
「…………」
私は無言で、マーサを鋭く射抜いた。
その瞳に宿る圧倒的な殺気と、背後の影から漏れ出すルシフェルの冷気に、マーサは言葉を詰まらせる。
「……死なないだけ、マシだと思いなさいな」
私は、震える彼女の耳元で、囁くように告げた。
「貴女がこれまで私にしてきたこと……食事を抜き、冷水を浴びせ、私の持ち物を横領した数々。そのすべてを詳細な『報告書』として、ギルドと次の雇い主候補に送っておくわ。……アモリアで、貴女を雇う物好きがまだいればいいけれど?」
「あっ……ああ……っ」
マーサの喉から、ひきつったような音が漏れる。
解雇されるだけではない。再就職の道も、これまでの信頼も、すべてを奪い取られるという絶望。
彼女が必死に守ってきた「筆頭侍女」という地位も、「ローゼンバーグ家」という後ろ盾も、今この瞬間にすべて消えてなくなった。
「ルシ。……掃除してちょうだい。私の視界に、ゴミを置かないで」
『御意に、主よ』
影が伸び、絶望に白目を剥くマーサを、音もなく部屋の外へと押し流していく。
バタン、と自室の扉が閉まる。
(……まずは一人。次は、誰の番かしら)
「……さて。筆頭侍女がいなくなった今、代わりを探さないといけないわね」
『主よ。……それなら、適当な人間の魂を弄って、都合のいい人形に作り変えてきましょうか?』
影の中から、ルシフェルが物騒な提案をしてくる。
「いいえ、力の無駄よ。そんな不自然な真似をして、一ヶ月後に来るあの女に隙を見せるつもり? ……ルシ、行くわよ」
私はパジャマのまま、再び廊下へと踏み出した。
向かう先は、屋敷の隅にある下働きの詰所だ。
五回繰り返した記憶の中で、唯一私を蔑まず、淡々と仕事をこなしていた少女がいる。
「……ライラ。彼女を拾うわ」
……それにしても、五歳の体は歩くのが遅いわね。
一歩一歩がひどくもどかしい。
廊下の石床は冷たく、パジャマ一枚では体温が奪われるのを感じる。
それでも私は足を止めない。一秒でも早く、自分の手足を揃えなければならないのだから。
ようやく辿り着いた勝手口の近くで、一人の少女が山のような洗濯物を抱えていた。
使い古された制服に、ひび割れた指先。
ライラだ。彼女は私に気づくと、驚いたように目を見開いた。
「セ、セレスティーナ様……? なぜ、このような場所に……」
「ライラ。突然だけど貴女を、今日から私の筆頭侍女にするわ」
「……え?」
呆然とする彼女を無視して、私は事務的に言葉を継ぐ。
「マーサはクビにしたわ。代わりが必要なの。貴女なら、私の指示を正確に聞けると判断したわ。……給与は今の三倍出す。その代わり、私の許可なく死ぬことは許さない。いいわね?」
「さ、三倍……!? いえ、それよりも、私のような下働きが筆頭なんて……」
「能力の問題よ。……返事は?」
有無を言わせない視線を向けると、ライラは毒気に当てられたように、こくりと頷いた。
よし、これで一人。
私はライラを連れて自室へと引き返す。
13年後の結末を変えるための、最初の『駒』。
感傷なんて、一滴も残っていない。
「……さあ、始めましょうか」




