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家事は誰がために鐘は鳴る ~元薬剤師の専業主婦が、夫と息子を静かに捨てるまで~  作者: 品川太朗


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7/10

第7話:半年後の地獄



 季節が二つ巡り、木枯らしが吹き始める頃。

 私のスマホのカレンダーに設定された『Xデー』まで、あと一週間となっていた。


 この半年間で、我が家のリビングは「人の住処」としての機能を完全に喪失していた。


 フローリングは埃とこぼれた汁物のシミで地図のような模様を描き、部屋の隅には畳まれていない洗濯物が山脈のように連なっている。

 空気は澱み、カビと生ゴミ、そして人間の脂が酸化したような特有の悪臭が漂っていた。


 その腐海のようなリビングのソファに、二つの「影」が沈んでいる。


「……ゴホッ、ゴホッ。あー、胃が痛え」


 濁った声で呻くのは、夫の隆だ。


 以前はそれなりに身だしなみに気を使っていた彼だが、今は見る影もない。Yシャツは黄ばみ、アイロンがかけられていないためシワだらけ。食生活の乱れからか腹が出ているのに、顔色は土色で頬がこけている。

 慢性的な胃炎と、不潔な環境による咳喘息の症状が出ているようだが、病院に行く手間すら惜しんで市販薬を乱用している。


「うるせーよ父さん、菌ばら撒くなよ……」


 不機嫌そうに吐き捨てるのは、息子の翔太だ。


 彼の方も悲惨だ。顔中に赤く腫れ上がったニキビが群生し、髪は脂ぎってペタリとしている。

 栄養失調と睡眠不足、そして不衛生な寝具による肌荒れ。大学では「不潔キャラ」として敬遠され始めているらしく、最近は休みがちだ。


 二人はコンビニ弁当の容器をテーブルに散乱させ、死んだ魚のような目でテレビを眺めていた。


 ガチャリ。


 そこへ、玄関のドアが開く音が響く。


「ただいま」


 リビングに入ってきた私を見て、二人は眩しいものでも見るように目を細めた。

 私は今日、仕事帰りに美容院に寄ってきたばかりだ。


 艶やかにケアされた髪、肌の調子を整える高い美容液のおかげで明るさを増した顔色。身につけているのは、新調したベージュのトレンチコートと、イタリア製の革靴。

 薬剤師としての給与は、生活費を折半した残りをすべて自分への投資に回している。


 薄汚れた部屋に立つ私は、まるで泥沼に咲いた蓮の花のように、皮肉なほど浮いていた。


「……なんだよ、その格好」


 翔太がポツリと言う。羨望と妬みが入り混じった目だ。


「母さんだけ、なんか若返ってない? 俺らはこんなにボロボロなのに」


「そう? 規則正しい生活と、ストレスのない環境のおかげかしら」


 私は微笑んで答える。

 彼らにとって家庭はストレスの源泉だが、私にとってはただの「寝に帰る場所」であり、今の生き甲斐は職場にある。


「ふざけんな……!」


 隆がダンッ、とテーブルを叩くが、力がない。


「お前、自分だけいい思いをして……俺たちのこの惨状を見て何も思わないのか! 俺は先週から微熱が下がらないんだぞ!」


「あら、それは大変。でも、お互い『自己管理』がルールでしょう?」


 私は彼らを観察対象として冷徹に見つめた。

 隆の咳はマイコプラズマ肺炎の疑いがあるし、翔太の皮膚炎は抗生物質の服用が必要なレベルだ。


 以前の私なら、すぐに受診を勧め、消化の良い食事を作っていただろう。

 だが、今の私はただの同居人。


「市販の総合感冒薬を飲み続けているみたいだけど、あなたの症状には合ってないわよ。……まあ、アドバイスはこれくらいにしておくわ」


「待てよ! おい、聡子!」


 隆が立ち上がろうとして、よろけてソファに倒れ込む。

 体力も免疫力も落ちている証拠だ。

 家事という「生命維持活動」を軽視し、私に丸投げしてきたツケが、半年かけて彼らの身体を蝕んだのだ。


「今日は遅くなったから、外で食べてきたわ。あなたたちの夕食の準備は、当番の翔太よろしくね」


「無理だよ……だるくて動けねーよ……」


 翔太が泣き言を漏らす。


「じゃあ、隆さんが代わってあげたら? それとも、またコンビニ?」


 私は彼らの返答を待たず、自分の部屋へと向かう。

 背後で、重苦しい沈黙と、ため息だけが聞こえた。


 自室に入り、コートをハンガーにかける。

 ふと、鏡に映った自分と目が合った。


 そこにいるのは、半年前の「疲れたおばさん」ではない。自分の足で立ち、自分の人生を歩き始めた、一人の自立した女性だ。


 私は引き出しから、一冊のファイルを取り出した。

 中には、新しいマンションの賃貸契約書が入っている。

 入居可能日は、来週の月曜日。


「……さようなら。あなたたち」


 壁一枚隔てた向こう側で、咳き込む夫と、悪態をつく息子。

 彼らはまだ知らない。

 この地獄が「底」ではなく、私が去った後にこそ、本当の崩壊が始まるということを。


 私は契約書の入居日欄を指でなぞり、静かに目を閉じた。

 胸にあるのは、罪悪感ではなく、長いトンネルを抜ける直前のような、清々しい予感だけだった。

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