第6話:不可視の境界線
シェアハウス宣言から一ヶ月。
我が家には、目には見えないが、明確な「国境」が引かれていた。
リビングのドアを開けると、そこは荒野だ。
フローリングはどこかベタつき、スリッパの裏がペタペタと音を立てる。部屋の隅には埃が雪のように積もり、テーブルの上には飲みかけのペットボトルや、菓子パンの袋が地層のように重なっている。
今週の家事担当は翔太だが、彼は「忙しい」を理由にゴミ出しを二回連続でサボっていた。生ゴミのゴミ箱からは、甘酸っぱい腐敗臭が漂い始めている。
対して、私のパーソナルスペース――寝室兼、私の書斎――は、別世界の清浄さを保っていた。
空気清浄機が静かに稼働し、アロマディフューザーからはラベンダーの香りが漂う。シーツは糊が効いてパリッとしており、埃一つない。
◇
日曜日の夕食時。その格差は決定的なものとなった。
ダイニングテーブルの端、私が拭き清めた一角だけが、高級レストランのような輝きを放っている。
今日の私の夕食は、デパ地下で買ってきた『アボカドと海老のサラダ』に、バゲット、そして白ワイン。
一方、テーブルの反対側を占拠する男たちの前には、スーパーの半額シールが貼られたカツ丼と、カップ焼きそばが並んでいた。
「……なんかさ」
翔太がカップ焼きそばをすすりながら、恨めしそうに私の皿を見た。
「母さんだけズルくない? 自分だけ高いもん食ってさ」
「ズルい? これは私が働いたお金で買ったものよ」
私はワイングラスを揺らしながら、淡々と答える。
「それに、あなたたちは言ったでしょう。『ガッツリしたものが好き』『薄味は嫌だ』って。だからお望み通りのものを食べているじゃない」
「……ちっ」
翔太は舌打ちをし、カツ丼をかき込んだ。肌荒れが悪化し、口の端が切れている。ビタミンB群の欠乏だ。職業柄、すぐに診断がつくが、私はもう指摘しない。
そこへ、隆も帰宅した。
彼はリビングに入った瞬間、足元のベタつきに顔をしかめ、脱ぎ捨てられた翔太のジーンズにつまずいた。
「おい! なんだこの汚い部屋は!」
隆の怒号が響く。
「翔太! 今週はお前の担当だろうが! なんで片付けない!」
「俺だって課題で忙しいんだよ! 父さんだって先週、風呂掃除サボってカビだらけにしたじゃんか!」
男たちの醜い罵り合いが始まった。
私はその喧騒をBGMに、プリプリとした海老を口に運ぶ。
以前なら、二人が喧嘩を始めれば、私が割って入り、「私が片付けておくから」と場を収めていただろう。
だが今は、彼らがただの「騒がしい隣人」にしか見えない。
「聡子!」
矛先が私に向いた。隆が充血した目で私を睨みつける。
「お前もだ! 見て見ぬふりをしてないで、少しは手伝ったらどうだ! 家が腐るぞ!」
私はナプキンで口元を拭い、ゆっくりと彼の方を向いた。
感情を一切乗せない、能面のような表情で。
「どうして私が?」
「は?」
「ここは『共有スペース』でしょう? 契約通り、担当週の人間が管理する場所よ。そこが汚れているのは、管理者の怠慢。私の責任ではないわ」
「屁理屈を言うな! お前は気にならないのか、この惨状が!」
隆がテーブルを叩く。
私は静かに首を横に振った。
「気にならないわ。私の生活圏は清潔だもの」
私は立ち上がり、自分の食べた食器だけを持ってキッチンへ向かう。
シンクの中には、二人が放置した昨日の茶碗が水に浸かったまま、油膜を張って浮いている。
私はそれらには指一本触れず、自分のグラスと皿だけを丁寧に洗い、拭き上げ、自室へと持っていく準備をした。
「待てよ! 俺の飯は!?」
隆が背後で叫ぶ。
「冷蔵庫にいつもの惣菜が入ってるわよ。電子レンジは……ああ、翔太が掃除してないからソースが飛び散ったままでしょうけど、使えるとは思うわ」
私は彼らに背を向け、廊下へと出た。
そして、自室に入り、鍵をかける。
カチャリ、という硬質な音が、私と彼らの世界を隔てる断絶の音として響いた。
部屋に入れば、静寂と清潔な空気が私を包む。
私はワインの残りをゆっくりと味わった。
リビングからは、まだ「お前がやれ」「お前のせいだ」という怒鳴り声が聞こえてくる。
かつては、あの輪の中で私も一緒に悩み、苦労していた。
けれど、境界線のこちら側から見る彼らは、まるでスノードームの中の嵐のように、どこか非現実的で、滑稽なショーにしか見えなかった。
「……あと、四ヶ月」
私は壁のカレンダーを見上げる。
貯金通帳の残高は順調に増えている。
彼らがこの汚濁の中で溺れていく間に、私は着実に、水面へと浮上しているのだ。




