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家事は誰がために鐘は鳴る ~元薬剤師の専業主婦が、夫と息子を静かに捨てるまで~  作者: 品川太朗


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第5話:ボタンひとつの幻想



 食事担当が「茶色の惣菜」で固定化された頃、洗濯と掃除の担当は夫の隆に回ってきた。


「洗濯なんて、洗濯機に入れてボタンを押すだけだろ? 今までお前がこれを『家事』として偉そうに語っていたのが信じられんよ」


 週末の朝、隆は鼻歌混じりに洗濯機のスタートボタンを押した。


 彼は色物も、タオルも、ワイシャツも、全て一緒に放り込んだ。しかも、節水のためなのか、パンパンに詰め込んで。

 私はその様子を横目で見ていたが、何も言わなかった。「手出し無用」と言ったのは彼らだからだ。


 ピー、ピー、と終了のブザーが鳴る。


 しかし、隆はテレビのゴルフ中継に夢中で、洗濯機から衣類を取り出そうとしない。

 一時間、二時間。

 濡れた衣類は、湿気の籠もった槽の中で、じっとりと放置されている。


 菌が繁殖するには十分な時間だ。


 夕方になってようやく干された洗濯物は、乾いた後、独特の酸っぱい臭いを放つようになった。


 ◇


 事件が起きたのは、週明けの夜だった。

 大学から帰ってきた翔太が、ドスドスと足音荒くリビングに入ってきたかと思うと、着ていたパーカーを床に叩きつけた。


「ふざけんなよ! 恥かいたじゃねーか!」


「……どうしたの、急に」


 私が冷静に尋ねると、翔太は顔を真っ赤にして叫んだ。


「ゼミの隣の席の女子に言われたんだよ! 『なんか、生乾きの臭いがする』って! 俺の服だよ、この服!」


 翔太は床のパーカーを指差す。


「父さんが洗ったやつだろこれ! ちゃんと洗剤入れてんのかよ! 母さんの買ってる洗剤が安いからこうなるんだろ!」


 責任転嫁も甚だしい。

 私はキッチンのカウンター越しに、淡々と事実を告げた。


「洗剤のせいじゃないわ。洗濯が終わった後、長時間放置したからよ。槽の中でモラクセラ菌が増殖して、その代謝物が臭いの原因になっているの」


「モラ……なんだよそれ! 知るかよ!」


「要するに、雑菌だらけの服を着て行ったということね」


「うげっ……マジかよ」


 翔太は青ざめ、自分の身体を抱くようにさすった。

 そこへ、隆が不機嫌そうに顔を出す。


「なんだ騒がしい。俺はちゃんと洗濯したぞ。文句があるなら自分でやれ」


「父さんのやり方が悪いって母さんが言ってんだよ!」


「ああん? 俺は機械の通りにやっただけだ!」


 醜い責任の押し付け合い。

 以前の私なら、「次は私が気をつけるわね」と間に入り、漂白剤で煮洗いして臭いを取ってあげていただろう。

 けれど、今の私は冷めた紅茶を一口飲むだけだ。


 彼らの失敗は、洗濯だけではない。

 掃除も悲惨だった。


 隆のかける掃除機は、部屋の真ん中を丸く撫でるだけ。

 部屋の四隅には綿埃が溜まり、廊下の角には翔太の抜け毛が吹き溜まりのように集まっている。


 さらに最悪なのは水回りだ。

 私は洗面所に向かった。


 排水溝には、髪の毛と石鹸カスが絡まり合ったヘドロのような物体が詰まっている。水が流れず、濁った水溜まりができている。

 トイレットペーパーは芯だけがホルダーに残され、新しいロールは床に直置きされていた。


 これが、彼らの言う「効率化」された家事の末路だ。

 名もなき家事――排水溝の掃除、ゴミの分別、シャンプーの詰め替え、トイレットペーパーの交換。そういった細かなケアを全て無視した結果、家は急速に薄汚れ、淀んだ空気を纏い始めていた。


「……汚い」


 私はポツリと呟いた。

 怒りよりも、生理的な嫌悪感が勝った。

 ここはもう、私が守るべき「城」ではない。ただの荒れ果てた「収容所」だ。


 私はリビングに戻ると、言い争っている二人に向かって宣言した。


「決めたわ」


 私の静かな、しかし通る声に二人が動きを止める。


「今後、私の洗濯物は自分で洗います。あなたたちのものとは一緒にしないで」


「はあ? なんでだよ、二度手間だろ」


「一緒に洗われると、私の服にまで菌が移るからよ」


 私はきっぱりと言い放った。


「それと、食事も別にします。あなたたちの健康管理にはもう責任を持てないし、私の作った料理を『味が薄い』と貶されるのも不愉快だから」


「おいおい、待てよ聡子」


 隆が焦ったように言う。


「それは契約違反じゃないか? 家事は分担制って……」


「家事分担は続けるわよ。ただし、『共有部分』だけ。自分の身の回りの世話は、自分でやる。……いわば、シェアハウスのようなものね」


 シェアハウス。

 その言葉に、二人は呆気にとられた顔をした。


「明日、私の部屋に専用のハンガーラックと、小型の冷蔵庫を買います。……もう、私の領域に入ってこないでね」


 私はそれだけ言い残し、自室へと戻った。

 背後で「なんだよそれ!」「勝手すぎるだろ!」という怒号が聞こえたが、私は部屋の鍵をカチャリと閉めた。


 物理的な遮断。

 これで、彼らが私の生活を汚染することはできない。


 私はベッドに横たわり、スマホのカレンダーを見る。

 Xデーまで、あと五ヶ月。

 家の崩壊速度は、私の予想よりも遥かに早かった。

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