第8話:敗北宣言
その瞬間は、日曜日の夜、唐突に訪れた。
リビングの惨状は極まっていた。洗濯機の乾燥機能が故障し(フィルター掃除を半年間一度もしなかったせいだ)、部屋中に干された半乾きの洗濯物から湿気と悪臭が立ち込めている。
キッチンにはカップ麺の空き容器がピラミッドのように積まれ、冷蔵庫の中身は空っぽか、腐っているかの二択だ。
「……もう、無理だ」
静寂を破ったのは、翔太だった。
彼はソファに顔を埋め、嗚咽のような声を漏らした。
「限界だよ……。服は臭いし、腹は減ったし、体中痒いし……。俺、こんな生活もう嫌だ」
翔太が顔を上げる。その目は涙で潤んでいたが、頬はこけ、まるで戦場から帰還した兵士のような悲壮感が漂っていた。
「母さん、ごめん。俺が悪かった」
彼は私の方を見て、深々と頭を下げた。
「家事がこんなに大変だなんて思わなかった。俺が間違ってた。掃除も洗濯も、魔法みたいに勝手に終わるもんじゃないって、やっとわかったよ」
その言葉を合図にしたように、隆も重い口を開いた。
彼はゴホゴホと咳き込みながら、プライドの高さをかなぐり捨てた様子で、私の前に正座をした。
「……俺からも頼む」
隆の声は掠れていた。
「聡子、俺たちの負けだ。お前のありがたみが骨身に染みた。……家の中がこんなに荒れてちゃ、仕事にも身が入らん。翔太も大学に行けてない。家庭崩壊だ」
二人は床に手をつき、私を見上げ懇願した。
まるで、餌をねだる痩せこけた野犬のようだ。
半年前、私を「ニート」「寄生虫」と罵った威勢の良さは、見る影もない。
「契約はもう破棄しよう。家事分担なんてやめだ」
隆が必死に言葉を継ぐ。
「俺が悪かった。お前には専業主婦……いや、兼業でもいい。とにかく、家のことを管理する『才能』がある。それを認めるよ」
「だから母さん、元に戻ってよ。俺たち、もう二度と文句言わないから」
「ああ、そうだ。給料は全部お前の小遣いにしていい。だから、明日からまた、あの美味しい飯と、綺麗な部屋を返してくれ。頼む!」
二人の頭が、フローリング(ベタついているが)に擦り付けられる。
見事なまでの敗北宣言。
読者――いや、誰かが見ていれば、「ざまぁみろ」と喝采を叫ぶ場面かもしれない。
しかし、私の中に湧き上がったのは、達成感でも優越感でもなく、ただの「確認」だった。
――ああ、やっぱり。
彼らは最後まで、「私の苦しみ」を理解したのではなく、「自分たちの不便」に耐えられなかっただけなのだ。
「愛しているから戻ってほしい」ではない。「便利だから戻ってほしい」のだ。
私はゆっくりと瞬きをし、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
それは慈愛の笑みではない。
彼らの勘違いを肯定も否定もしない、ただの筋肉の動きだ。
「……わかったわ。二人の気持ちはよく伝わったわよ」
私がそう言うと、二人はパッと顔を上げた。
その表情に、安堵の色が爆発する。
「本当か!? 許してくれるのか!」
「よかった……! やっぱ母さんは優しいよ!」
隆と翔太は、地獄の底から蜘蛛の糸を掴んだ亡者のように、互いに肩を叩き合って喜んだ。
彼らの脳内では、すでに「解決済み」のハンコが押されているらしい。明日からはまた、私が早起きして朝食を作り、洗濯をし、彼らの世話を焼く日常が戻ってくると思っているのだ。
「いやあ、やっぱり家には聡子が必要だな! 反省したお祝いに、明日の夜はトンカツにしてくれよ。お前の作った揚げたてのやつ、久しぶりに食いたいんだ」
「俺はハンバーグがいい! あ、洗濯も頼むな。溜まってるやつ、全部洗い直してほしいんだ」
喉元過ぎれば熱さを忘れる。
まだ私が「イエス」と言ったわけでもないのに、彼らはもう注文をつけ始めている。
その図々しさが、今は滑稽で愛おしいとすら思えた。
だって、これが最後なのだから。
「ええ、そうね。……明日は、特別な日にしましょう」
私は意味深に頷いた。
彼らはそれを「復縁のパーティ」だと解釈し、歓声を上げた。
「よし、今日は安心して寝られるぞ」
「おやすみ母さん! 明日の朝飯、楽しみにしてるから!」
二人は半年ぶりに晴れやかな顔で、それぞれの寝室へと消えていった。
残されたのは、私一人。
私は静かになったリビングを見渡す。
汚れた壁、シミだらけのカーペット。
この家には、私の二十年間の思い出が詰まっている。けれど今はもう、産業廃棄物の処分場にしか見えない。
「……馬鹿な人たち」
私はスマホを取り出し、明日の予定を確認する。
午前九時、引越し業者到着。
午前十時、不動産屋で鍵の引き渡し。
午後一時、弁護士事務所にて離婚協議書の発送手続き。
彼らが夢見ている「明日」は、永遠に来ない。
明日の朝、彼らが目覚めた時、そこに「都合の良い妻」も「優しい母」もいない。
あるのは、もぬけの殻になった家と、現実という名の請求書だけだ。
私は最後の荷造りをするため、静かに自室へと戻った。
今夜は、よく眠れそうだ。




