第三十六話
❀雑貨商にて❀
炎估と咲夜の秘事は、ほかにもいくつかある。たとえば、咲夜のタマシイは若い女だとか、炎估が夫婦生活をしていた相手だとか、ろくなものではないし、十翼の正体は人間には、とうてい理解できないものだ。怪しい関係をうたがわれる存在は、どこにでもあふれているが、同胞はおもしろおかしく拡げてゆき、時代さえも越えて、延々と語り継がれてゆく。
「いかんのう。わしも修行が足らぬわ。こんなことで気を散らせては、世のなかの思うツボではないか。……まいった、まいった」
それもこれも、さくやの亭主がはっきりしないせいである。タマシイをつかむものとしては脆弱で、川底へ沈む螢介のからだをひきあげることさえ、ひとりの力では不可能だった。その場にいたのは、炎估ではない。螢介が思いだせないだけで、いちばん最初に見た十翼が、亭主の願いを聞きいれて、高校生を救出した。
「……さて、つぎはどう出るかのう。天蔵よ」
風估は、クックックと笑みをこぼし、座敷へもどった。からだが自由に動かない少年は、行儀よく眠っているようにしか見えないが、か細い声を、ずっと洩らしていた。残念ながら、風估に聞きとることはできない。人間のことばは、風估の耳にはとどかないのだ。十翼の正体を知ろうとしない螢介は、亭主のことばかり考えていた。
「ハックション!!」
と、大きなくしゃみをした螢介は、玄関のほうへ視線を向けた。くしゃみに驚いて跳ね起きたネコは、嗅覚で『にゃにゃっ、このにおいは、いしづきなめこの、しゅうじんだな!』と声をあげた。……うん? いま、囚人って云わなかったか?
ネコの口調はもたつきがちで、「主人」と「囚人」のように、似たようなひびきの単語は聞きとりにくい。螢介は、じぶんの聞きまちがいだと思い、玄関へ先まわりした。ガチャッ。鍵をあけると、外側に立つ人影が、勢いよく硝子戸を横にスライドした。
「天蔵よ、いますぐ少年の話を聞いてやるのじゃ!」
「わわっ、いきなりなんスか、なめこさん!」
正面から泣きつかれた螢介は、雨のなかを傘もささずにやってきた風估を、玄関の段差に坐らせた。
「あの高校生が、どうかしましたか? あ、もしかして……、目を覚ましたとか?」
「そうではいが、そうである。とにかく、なにを云っておるのか、わしには全然わからんわ。ぼそぼそと、まるでお経を唱えているようで、おちつかぬ。サクッと聞書をしてやってくれ」
「き、聞書ですか……。それはちょっなと……」
亭主がそばにいなければ、螢介の呼吸は安定しない。聞き手の心が乱れたまま書き記した文字は、紙のうえで暴れだす。そう説明しても、風估はひきさがらなかった。
「おぬし、わしの舗から料紙を持ち帰っただろう? 代金は請求せぬから、わしの云うことをきけ」
たしかに。勝手に商品棚の料紙を使って聞書をしたが、手渡したのは亭主である。とはいえ、無断で商品を拝借したほうの分が悪い。螢介は亭主の室にある兼毛筆を持ちだすと、「ついでにこれもください。風呂場に落ちていたやつです」といって、風估の目のまえにさしだした。
「うむ、わしの気にいりの一茎だが、よかろう。おぬしにくれてやるわい」
「ありがとうございます。……立てますか?」
風估の上膊をとらえてスクッと膝を垂直にひきあげる螢介は、相手に変な顔をされた。
「な、なんですか、その顔」
「おぬしの手つき、やけに熟れておるのう。さては、たらしじゃな?」
「たらし? おれのどこが?」
「しかも無自覚か天然か。タチが悪いのう」
「なんの話ですか。さっさと行きますよ。急いでください」
玄関の内側に立て掛けてある黒傘を、バサッとひらいた螢介は、風估にさし向けて「ほら」と、手をさしのべた。腕を組んで相合傘となる状況をつくりだす螢介は、まったく意に介さないようすだった。
「なんたる男だ。云ったそばから連発するとは、末恐ろしい。おぬしのその威勢、きらいではないぞ。わしが女であれば、よろこんでふところにはいったものを……」
風估はクックックと笑い、螢介の脇に寄り添って歩いた。
〘つづく〙




