第三十五話
❀雑貨商にて❀
さくや亭へ螢介がもどったあと、そのころの石づきなめこでは、風估が少年に付き添っていた。雨にぬれた学ランは脱がせてあるため、敷布団には裸身で寝かしつけてある。もとより、トラックとの接触を回避した拍子にタマシイは抜けてしまい、現在は空虚という仮死状態に近い。声はだせないが、螢介ならば聞書によって少年の思いを文章にまとめることはできる。
「わしが見張る必要もないのう。こやつは、とうぶん動けぬわ」
風估は、少年のそばを離れて風呂場へ移動した。螢介いわく、筆が落ちていたという。湯殿にはいり隅々まで確認したが、そんなものがあるはずはなかった。
「……よもや、あの筆が、あやつのもとへ転がりよったか?」
こんどは舗の商品棚を見にいくと、はした金で買った普通軸の中筆が一茎なくなっていた。馬や羊などの毛を混合してある兼毛筆で、初心者にも使いやすい素材である。
「道具も人間を択ぶというからのう。あの筆を道具屋で見つけたときは、ただの気まぐれであったが、いやはや、かの一茎は、天蔵の手におさまったか」
風估は、筆を雅語で数えた。硯は一面、二面、あるいは一石、二石、文鎮は一挺、二挺、あるいは一棹、二棹とも数える。また、「筆」というのは土地の単位のことで、登記するさいは「一筆」と記録する(一般的には、宅地は「区画」と数える)。
「いまごろ、試し書きをしているかもしれんな。さくや亭には炎估がおるし、万一のことはなかろうが、天蔵の小僧は、さぞ、仰天するよのう」
螢介が持ち帰った(正確には亭主が持ち帰った)筆には、ちょっとしたいわれがあった。出張さきの道具屋へ立ち寄った風估は、処分品として雑多にならぶ安物のなかに、普通軸の兼毛筆を見つけ、足をとめた。職人による手仕事は、見るものをひきつける。風估は、迷いなくその筆を買った。
「天蔵よ、せいぜい勉強に励むがええ。……あのときに死んでいたおぬしが、ふたたび日照にしとめられないよう、幽やみの亭主を守るのじゃ。炎估の意志は、無視してかまわん。あやつは、ほかのだれかのタマシを棄ててでも、この界に未練があるだけじゃ。咲夜と結んだ関係は、永久などではない」
十翼は強い意思を持ち、積極的に動く属性だが、風向きをうかがうことも重要である。深追いして手にいれたものは、かならず毀れてしまう。そうなるまえに、亭主を極楽へ逝かせることが、炎估の狙いだ。久遠のときの狭間で、彼らは出逢い、炎估と咲夜のタマシイは絲で結ばれた。どちらかが死ぬまで、そばを離れることはできない。十翼に生命活動という摂理はなく、さきに人生を終えるのは、まちがいなく咲夜のほうだった。
「しかたあるまい。どれほど惜しんでも、人間のからだはゆっくりと朽ちてゆく。われら十翼とて、心が承知してこそ、生者を愛おしむのだろうなぁ」
炎估が亭主を灼き殺す理由は、ほかのだれにもタマシイを囚われないよう、完全に消滅させるためである。手にいれた感触に身ぶるいした炎估は、この界に未練を残さないために、さくや亭へ棲みつき、怪しい存在を察知しては、しりぞけてきた。
〘つづく〙




