第三十四話
❀さくや亭にて❀
どうやら、文字を書いた本人の心が乱れていると、正しく文章をまとめられないようだ。話し手のことばに動揺した螢介は、後半部分がうまく書き記せておらず、料紙のうえで筆致が暴れていた。
「午后までにおちつかせろって云われてもな、炎估のせいで、気が散るっての。……あと、ネコ!」
『なんだ、けいすけ。きげんがわるいな』
「機嫌なら、そこそこ良好だけど」
『むむっ、ならばなぜ、そのようにかおをしかめておるのだ?』
「目のやり場に困るからだ。ワンピースの下、なんでパンツを穿かないンだよ。いいのか? 丸見えだぞ」
人型でくつろぐネコは、おなかを天井に向けて、畳のうえに寝ころんでいる。ワンピースの裾がめくれ、生身の太ももが螢介の視界に映りこむ。床の間には長方形の卓袱台と習字道具がそろっているため、螢介は銘仙の座布団に腰をおろすと、料紙をおいて腕組みをした。卓袱台の横で、ネコがごろごろしているが、最初のうちは気にならなかった。……いくら正体が動物の猫とはいえ、人型時のプロポーションがやばすぎるだろ。まえみたく、小さな女の子にもどれねぇのかな。
螢介のウロコを手にいれて(なにやら)パワーアップしたと思われるネコは、豊満な肉づきをした女体と化している。しかも、薄着だ。思春期の高校生には刺激が強すぎる見た目につき、なるべく平静をよそおって会話した。
『ぱんてぃーは、いらんのだ。おそとにいるときは、みんなはだかなのだ』
「そりゃ、野生での話だろ。いまは飼い猫なんだし、同居者(※おれのことだよ)もいるわけだし、慎みをもてよ」
『にゃにゃっ、やはり、きげんがわるいな? いえのなかで、かっこうにもんくをつけるとは、よけいなおせわなのだ。どんなすがたでも、あたしのかってだろう!』
ガバッと上体を起こしたネコは、人型のまま押入れで丸くなった。……勘弁してくれ。先生といい炎估といい、こっちの身がもたねぇ。大胆な性格にふりまわされる螢介は、深い溜め息を吐いた。
おちつきたいのに、おちつけない。人間の感情は、環境的要因の影響を受けやすい。螢介は精神統一を思いつき、巻紙をひろげて文鎮(石づきなめこ秘蔵の呪具)でおさえると、墨を磨った。手ごたえはやわらかく、墨は、思っていたよりもすんなり融けてゆく。墨液が滝壺へ沈むまえに手をとめ、習字道具のなかにある筆を持ち、墨をふくませた。
百歳で亡くなった師である曾祖母の声が、いまでも耳にひびく。いいかいケイちゃん。書写は、文字を正しく美しく書く練習なんだよ。どんな文字にも意味があってね、一字ずつ大切に書いてあげること。……はぁい。よしよし、いい子だね。ケイちゃんは、ほんとうにいい子だねぇ。
「……おれは、いい子じゃねぇよ。……ひいばあちゃん」
幼いころの記憶は、成長と共に薄れてゆく。遠い過去に存在した曾祖母の声も、やがて、完全に忘れるのだろう。どんな思いで子どもたちに文字をおしえていたのか、いまとなっては訊ねることもできない。葬式に参列した螢介は、棺桶といっしょに燃やされる曾祖母の旅だちを、ふしぎな思いで見送った。いつかまた逢えるのだと、勝手に信じこみ、秋の夕暮れに舞う落葉を拾いあつめ、火葬場の駐車場を走りまわっていた。
「どあほう」という、炎估の低い声でハッとなる。螢介は、筆を持ったまま居眠りをしていた。卓袱台の向こう側に、炎估が立っている。巻紙には、「火」「風」「天」の三文字を書き記してあった。とくに深い意味はない。だが、炎估は険しい表情で口をはさんだ。
「象形文字を書くやつがあるか。この屋敷を燃やしたいのなら、べつの話だがな」
「そんなわけあるか。なにがそんなに危険なんだよ」
「さわってみろ」
「さわるってなにを……、熱っ!」
巻紙に書いた「火」の文字から、烟が立つ。文字も、チリチリと赤くなってゆく。偶然腕に触れ、とっさに筆を手放した。「なんだよ、これ!」あわてる螢介をよそに、炎估が息を吹きかけて鎮火した。
「……聞書すると、文字が動いたり、火がでたりするのかよ?」
〘つづく〙




