プロローグ・人
(2025/04/17追記)プロローグ地Ⅱの表記を人に変更。文章の情報量を追加。主人公の苗字の漢字を天草から天艸に変更。読みはそのままです。
日本・東京。
AM9:20。
3月の終わり頃。都内の駅近くにあるそのアパートは一見ある程度綺麗めではあるが、人ひとりしか通れぬような狭い廊下の造りになっていた。ひとつドアを開けばその先にあるのはキッチンやトイレ・シャワールームの付いた洗面台のない3畳ワンルーム。
朝からそんな狭い廊下を走る赤茶髪で背丈のある青年・天艸時人は、やはり狭そうに玄関を潜り抜け、数歩進んでその場にリュックを置いた。
「どこだっけなあ」
探しているのはスマートフォン。
アルバイト先へ向かおうと駅に着いたところでスマートフォンを家に忘れたことに気が付いた。休んでいる余裕はない、バイトに遅れてしまう。そんな焦りと共に奥へ進み3畳の部屋を見回す。
部屋にあるのは小さな机とノートパソコン。そして"お土産"程度。テレビすらない寂しいその部屋は、物探しをするのに時間はかからなかった。すぐにスマートフォンがないとわかると、戻って玄関上にあるロフトを確認しに向かった。
「……っと、あった!」
綺麗に畳まれた毛布の上に青のスマートフォンがポツリと置かれていた。早速手に取りバイト先へ向かおうとしたその時、RAINというチャットの通知が届いてはその内容にしかめっ面をする。内容はこうだ。
『おはよう!トキ生きてるか~?』
『お姉ちゃんはな、な、なんと!子どもができました!(うさぎの照れるスタンプ)』
『4月12日、トキ誕でしょ??だからその日、家族みんなで集まって私の妊娠&結婚祝いとトキの誕生日パーティーをしたいんだけど、来れそう?』
『てか来いよなー!大好きなつる姉の為に!』
『お仕事頑張って♡連絡待ってます♡(うさぎの大好きスタンプ)』
はあ、とため息をもらす。姉のことは嫌いではないし、姉の妊娠も結婚も素直におめでたいと思う。ただ、『家族みんなで集まって』の一文が彼の表情を暗くしたのだ。
両親の姿がフラッシュバックする。
────余計なことは思い出したくない。
一言の返信もせず、時人はスマートフォンをズボンのポケットにしまった。
AM10:45。
急ぎ足で着いた場所は大きなデパート内の飲食店。従業員用の出入口でまず出会ったのは同じ職場の先輩であり副店長の蔵井だ。
「お、お、おはよ~おう、トッ、キィ~」
「おはようございます!蔵井さん今日も袖かわいいですね!」
「う、う、うん? ふふ……と、トッキー、は11時ィから、だっけ、きょ、今日はギリギリだ、なァ」
コートが伸びすぎて袖が垂れ下がっており、フードを目元まで深く被りながら震えるように喋るその姿を、接客業の副店長とは誰も予想だにしないだろう。時人もそのひとりであったが、仕事になると人が変わるようにハキハキとした人物になる蔵井に度肝を抜かれ、それからは結構懐いている。……ちなみに、30代半ばの男性だ。
蔵井と共に職場のバックルームに着くと、そこには口元のホクロと大きな胸が特徴的な綺麗な女性、早乙女が時人を見て瞳を輝かせては飛びついてきた。
「あ~ん時人くん! おはようおはようっ。ねぇねぇ聞いて聞いて! 厨房の仲村さんっているじゃない? 朝、駅前の信号で出くわしてここまで一緒に来ちゃったのきゃーー!」
朝とは思えない早乙女のテンションの高さに、二人は若干の距離をおく。時人は挨拶を返しながら、あれ? とあることを思い出す。
「早乙女先輩、彼氏いませんでしたっけ?」
「それとこれは別なの! うちの彼氏ブサイクだもん! イケメンとの時間って貴重なの! んも~仲村さん食べちゃいたいくらいかっこいい~!」
「あ、あんまり、大きな声、は、出さな、い。外に、ひ、ひ、響く、からさ……」
「あっ副てんちょーいたの!? ごめんなさい、おはようございま~す」
ペコッ、と軽く頭を下げる早乙女に、蔵井は薄気味悪く微笑み返した。
厨房の仲村のことは時人もそれなりによく知っている。確かに顔もスタイルもモデル顔負けの大学生で魅力的だが、実はかなりの二次元オタクであり、イエスショタロリノータッチ! と叫んでいたことは、言わないほうがいいか、と時人は苦笑いをした。
「そ、そう、だとと、トッキィ。4月の、予定……まだ、記入してない、よな?」
「ああ、そういえば。まあオレ暇なのでだいたい出られますけどね」
時人はすぐさまポケットからボールペンを取り出しシフト表に丸をつけ始めた。
「時人くん中卒だから学校ないんだっけ」
「はい。色々あって高校には行かず……」
言葉がつまる。4月12日の欄で一瞬、姉からのメッセージを思い出したのだ。
──それでも、と丸を付けようとしたその時、蔵井が声をかける。
「じゅ、12日。トッキー、誕ん、生日、だよなァ? や、休んでも、いいんだぞ……や、夜勤、も、してる、だろうし、な……」
「えーウッソトキトくん12日誕生日なの!? 知らなかったあ。も~、そういう日くらい休んでっ。プレゼント13日に渡すね!」
「……すみません。ありがとうございます。あ、仲村さんもこの日休みなんですね~……」
時人がこの職場でバイトを始めてはや2年経つが、誰ともプライベートの話をあまりしない仲だ、そんな中でも蔵井は彼が今どんな環境で暮らしているのかは察しがついている。
――他人の親切を、蔑ろにしたくはない。
パーティーに参加する気は毛頭無いが、二人の言葉に甘えて丸は付けなかった。
4月12日。
AM8:30。
アルバイト先である大きなデパート近くの駅でバッタリと知り合いに出会う。
職場の先輩、仲村だ。
「あれ、天艸じゃん。今日シフト入ってなくね?」
「えっ……ああ、今日って12日でしたっけ」
ほぼ毎日シフトが入っているのが当たり前だった時人はつい休みをいれた日に働く気で職場近くまで来てしまっていた。そんな彼の様子に仲村は目を丸くしては、ははは、と笑い出した。
「マジかお前! もはや職業病の域こえてるって」
なんとなくムッ、としながら時人はシフト表を思い出す。
「……でも先輩も今日シフト入れてないですよね?」
「そりゃっ──今日は発売日だからな。ああっとお前は知らんでいい聞いちゃいけない聞かない方が幸せなこともあるんだ世の中にはそれはそうとこの子可愛くない? 今日発売するゲームの新キャラなんだけど」
早口でそういいながらスマートフォンの画面を見せつける仲村。どうやらアニメやゲームキャラクターのグッズのようで、角の生えた金髪の子どものフィギュア写真とそのキャラクターイラストが掲載されていた。
「角っ子でかわいいですね」
「だが男だ」
「すみません、守備範囲外です」
その返答にがっくりと肩を落とす仲村。
時人はオタクではないものの、引かずにオタクの話を聞いて理解しようとしてくれる素直なところを仲村は気に入っている。そして時人のドラゴン系少女になんとなく興味があるという仲村側の世界に向いた好みの傾向を利用してどうにか引きずりこもうとするが、時人自身ゲームはおろか趣味そのものがなく、ただ話を聞いてくれる存在で止まってしまっていた。
「お前はほんと、勿体ないよ……」
「? それはそうと、先輩の買い物付いてっていいですか? オレ今日なんもないんでかなり暇なんですけど……」
「それはいいけどすぐ終わるぞ? 家までは連れてってやんねーからな」
「はは、行きませんよ」
ああは言うが仲村は店につい長居するタイプであることを時人は知っている。昼頃には終わりそうだがそれでも充分、ある程度の時間を潰せると思った。
──案の定……というか途中でマックやらゲーセンやらにいってしまい思いの外時間が経っていった。
仲村とは駅で別れ、時人は一人だ。
目的の駅で電車を降り、すぐにスマートフォンの時間を見る。
(16時37分……)
あれから姉への返事はしていない。申し訳ないと思いながらも、仕方ないとも思っている。
親に、会いたくない。
ただそれだけだ。それだけが時人にはとても苦しく、厳しい。逃げられるならば逃げられるところまで逃げ続けたい。得にもならないのにわざわざ己を苦しめるものに立ち向かえるほど強くはない。
(…………ダメだ)
アルバイトのない日、仕事をしていない時間、ゆったりと時を過ごしているとどうしても思考が過去ばかり追う。
誰かと話したい、忙しさが恋しい。
今から戻れば仕事はあるだろうか。
そんなことを思いながら歩道を歩いていると、後ろから自転車が既に散った桜を舞い上がらせながら通っていく。時人はハッと我に返り、辺りを見渡した。
もう家の近くだ。改めてスマートフォンで時間を見る。
(16時44分……ん)
画面上の数字と桜の花弁が重なった。ほぼ真上で花弁を散らせている桜の木を見上げる。
──そういえば。春だというのに全く桜を眺めていなかった。いつからだろう。桜に心を動かす余裕もなくなっていたのは……。
(いつだっけ、桜が見たくて外に出たら父親の車に──)
ブレーキ音は無かった。
ただよくあるタイヤの音だけを鳴らして、運悪く歩道ブロックに捕まらずそのまま時人の背に突っ込んできた。後ろを振り返る余裕どころか予想も予感もない、天艸時人の身体はこの日、この瞬間、大きく突き飛ばされた。
──暗闇。
暗闇。暗闇。暗闇、暗闇。暗闇……
動かない筈の頭で辺りを見渡すが、そこには何もない。いや、なんとなく進む道がある気がした。
動かない筈の足で辺りをうろうろ歩き出すが、よく見ると足がない。いや、なんとなく身体そのものはある気がした。
感じる、というのはこの暗闇の中で最も大切なものという思う反面、嫌な直観が不安を煽る。
――きっと、動くべきではない。
――動くべきではないのだが、動かなければ。
彼は何かから逃げるように、誰かに引っ張られるように真っ直ぐ歩き出す。足はないが、それでも、真っ直ぐ、真っ直ぐ、永遠に感じるほど長い時間を、真っ直ぐと歩いていった。
「もう、そろそろ目を覚ましていいのよ?」
少女の優しい声が耳元で囁いた。




