体育祭の襲来と、新たなる防衛戦線
文化祭という一大イベントを、ハートのカフェ・オ・レという至高のハッピーエンドで終えたのも束の間。高校一年生の十月上旬、佐藤遥香と中村雛の前に、新たなる巨大なイベントが立ちはだかった。
秋晴れの心地よい風が校庭を吹き抜ける中、学校中は「体育祭」の熱気に包まれていたのである。
普段の遥香であれば、文化祭以上にこのイベントを嫌悪していたに違いない。「運動? 汗をかく? 正気か? 私はジャージを着て布団の中でスマホをいじるために生まれてきた生物だぞ」と、持ち前のズボラ精神を発揮し、すべての競技で補欠に回り、木陰でジュースを飲みながら時間を潰す方法を全力で模索していただろう。
しかし、今年の遥香には、やはり逃げられない理由――いや、逃げてはならない聖戦があった。
「ねえねえ、中村さん! 体育祭の女子種目、何に出る? やっぱり花形のバレーボール? それともリレー?」
「あ、ええと……私は、球技がいいなって思ってて……」
クラスの体育委員の女子たちが、楽しそうに雛のデスクを囲んでいた。
雛は家の中でこそ、その圧倒的な美貌と高い生活レベルで遥香を圧倒しているが、学校においては依然として、周囲の視線に少し怯えるような純粋さを残している。おまけに、文化祭での「超絶美少女カフェ店員」としての活躍により、彼女の知名度は今や他学年や他クラスの男子どもにまで完全に轟き渡っていた。
(まずい。極めてまずい状況だ)
遥香は自席の窓際から、鋭い眼光で教室内を、そして廊下を行き交う他クラスの男子たちの視線を警戒していた。
(文化祭は屋内だったから、私が裏方として暗躍し、シフトをコントロールすることで悪い虫を排除できた。だが、体育祭はオープンな戦場だ。全校生徒が入り乱れるグラウンドや体育館で、体操服姿の雛がどれほど不特定多数のオトコどもの目に晒されるか……! 想像しただけで、脳内マネージャーが緊急警報を発令しているぞ!)
特に、体育祭というイベントは、男子どもが「スポーツのできる格好いい俺」をアピールするために最も狂暴化する時期である。雛が競技に出ている最中、どさくさに紛れて接触を図ろうとしたり、声をかけようとしたりする邪悪な存在が必ず現れるに違いない。
「あ、あの、遥香ちゃん……」
体育委員に囲まれていた雛が、困ったように遥香の方を振り返り、視線で助けを求めてきた。
その瞬間、遥香の中の「中身おっさん」兼「専属SP」の魂が激しく燃え上がった。
「ちょっと、みんな。雛の種目なら、もう決まってるから」
遥香はガタッと椅子を鳴らして立ち上がると、雛のデスクへと歩み寄った。
「え? 佐藤、決まってるって何に出るの?」
体育委員が不思議そうに尋ねる。遥香は雛の前に立ちはだかるようにして、不敵な笑みを浮かべた。
「女子バスケットボールだよ。雛と私は、二人セットでバスケに出場する。ね、雛?」
「えっ? あ、うん! 遥香ちゃんと一緒なら、私、バスケがいいな!」
雛が嬉しそうに顔を輝かせる。
バスケットボール――それは、コートという限られた空間の中で、激しい身体接触が行われる球技だ。他クラスの女子チームの中には、雛の美貌を妬んで激しく当たってくる不届き者がいるかもしれない。
(ならば、私が同じコートに立ち、雛の盾となり、矛となり、すべての脅威から彼女をガードする! この佐藤遥香、スポーツのセンスはそこそこあるんだ。面倒くさがりだけど、雛のためなら鬼にでもなってやるさ!)
こうして、遥香の「鬼神」としての体育祭が、幕を開けたのだった。
◇
体育祭までの数日間、一年B組の女子バスケチームは、放課後の体育館で練習を重ねていた。
普段は帰宅部で、お菓子とジュースで生きている遥香にとって、放課後に体を動かすなど正気の沙汰ではなかったが、雛が一緒となれば話は別だ。
「ほら、雛! パス回すよ!」
「うん! 遥香ちゃん、ナイスパス!」
キュッ、キュッと体育館の床を鳴らしながら、二人は見事な連携を見せていた。
遥香は、自分でも驚くほどの集中力を発揮していた。元々、運動のセンス自体は悪くないのだ。ただ「面倒くさい」という理由だけで部活に入っていなかっただけである。しかし、目の前で一生懸命にボールを追いかける雛の姿を見ていると、不思議と疲れなど忘れて体が動いた。
練習の合間、雛がふぅと息を吐きながら、ベンチで髪を結び直していた。
体操服姿の雛は、それだけで学校のパンフレットの表紙になれるほどの輝きを放っている。いつもは下ろしている黒髪を高い位置でポニーテールにまとめており、露わになった細く白い項が、夕暮れの体育館の光に照らされて眩しいほどだった。
「遥香ちゃん、これ、差し入れのスポーツドリンク。はい、どうぞ」
雛が冷えたペットボトルを遥香の頬にピトッと押し当ててきた。
「うおっ、冷たっ! あ、ありがとな、雛」
遥香がボトルを受け取り、ゴクゴクと勢いよく喉を鳴らして飲む。その様子を、雛は隣に座って嬉しそうに眺めていた。
「遥香ちゃんって、練習の時、すっごく真剣な顔になるよね。普段はお家でゴロゴロしてるのに、なんだか別の人みたいで格好いい」
「ハハ……まあ、本番で雛に恥ずかしいところ見せられないからね。他クラスの連中も、雛を狙って激しく来るかもしれないし、私がしっかり守ってあげないと」
遥香が少し胸を張って言うと、雛は少し視線を落とし、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私、遥香ちゃんが同じコートにいてくれるだけで、すっごく安心。本番も、私、一生懸命頑張るね」
そう言って、雛は自然な動作で、遥香の体操服の袖をきゅっと掴んだ。
至近距離から漂う、汗をかいてもなお清潔で甘い、雛の「いい匂い」。遥香の心臓は再びバクバクと暴れ狂い、脳内のおっさんが「あかん、ポニーテール雛ちゃん、破壊力が天元突破しとる……!」と大絶叫していた。
だが、遥香は必死に平然を装い、「よし、もう一回シュート練習行くぞ!」と立ち上がった。すべては、本番で雛を完璧に守り抜くための、熱い決意の現れだった。
◇
そして迎えた体育祭当日。
校庭には様々な競技の歓声が響き渡り、体育館では女子バスケットボールの予選が始まっていた。
一年B組の初戦の相手は、運動部の女子が多く集まる強豪の一年D組だった。試合開始のホイッスルが鳴ると同時に、激しいボールの奪い合いが始まる。
「おい、あの中村って子、めちゃくちゃ可愛いぞ」
「でも、運動はそんなに得意じゃなさそうだな。あの子からボールを奪えば、一気に崩せるぞ!」
相手チームの女子たちが、雛をターゲットにしてマークを強めていくのが分かった。雛は果敢にボールを追いかけるが、相手の激しいディフェンスに阻まれ、次第に窮地に追い込まれていく。
その光景を目にした瞬間、遥香の脳内のスイッチが完全に「狂暴モード」へと切り替わった。
(……私の雛に、気安く体をぶつけてんじゃねえぞ、ゴラァッ!!)
おっさんの怒りと、姉としてのプライドが融合し、遥香はコート上で文字通り「鬼の様な働き」を開始したのだった。
「雛、パス!」
遥香は弾丸のようなスピードで相手のディフェンスをすり抜けると、雛からボールを受け取った。そのまま、相手チームのセンターがブロックに来るのを、驚異的なステップでかわし、鮮やかなレイアップシュートを沈める。
「よっしゃあ! ナイスシュート、佐藤!」
クラスのベンチから大歓声が上がる。だが、遥香の進撃はそこからが本番だった。
相手チームが雛に近づこうとすれば、遥香がどこからともなく猛スピードで現れ、強烈なスクリーン(壁)となって相手を物理的にシャットアウトした。その気迫たるや、さながら戦場を駆ける重戦車、あるいは獲物を絶対に逃さない猛獣のようだった。
「な、何あの子……! 普段帰宅部のくせに、動きがキレすぎでしょ!」
「佐藤さん、目がマジで怖いんだけど……!」
相手チームの女子たちが、遥香の放つ「鬼神」のようなオーラに完全に気圧され、ジリジリと後退していく。
遥香の目的は、単に試合に勝つことではない。雛に指一本触れさせず、彼女を完璧に守りきること、それだけだった。
「雛、走れ! ゴール前空いてるぞ!」
「うんっ!」
遥香が相手のマークを二人引きつけた状態で、ノーマークになった雛へと絶妙なループパスを送る。雛はそのボールを綺麗にキャッチし、練習通りにシュートを放った。
綺麗な放物線を描いたボールが、吸い込まれるようにリングを通り抜ける。
「やったぁ! 入った!」
雛が弾けたような笑顔で、遥香に向って駆け寄ってきた。
「遥香ちゃん、やったよ!」
「ナイスシュート、雛! 完璧だった!」
二人はコートの中央で、パチンと力強くハイタッチを交わした。
試合は、遥香の圧倒的なディフェンスとゲームメイク、そして雛の活躍により、一年B組の圧勝に終わった。ベンチに戻る遥香は、肩で息をしながらも、雛を守りきったという確かな充実感に包まれていた。
◇
しかし、そんな「鬼神」のような無茶な動きが、タダで済むはずがなかった。
第二試合、準決勝の激しい競り合いの最中だった。相手の放ったパスを強引にインターセプトしようとした際、遥香の右手の感覚がズレた。ボールの強い勢いが、遥香の右手の薬指にダイレクトに衝突したのだ。
「――っ!?」
鈍い衝撃と、それに続くズキズキとした激しい痛みが走る。
(あ、これ、完全に突き指したわ……)
試合はそのまますぐにタイムアップとなり、なんとか勝利を収めたものの、ベンチに戻った遥香は、右手を押さえて顔をしかめていた。見る見るうちに、薬指が赤く腫れ上がっていく。
「遥香ちゃん!? どうしたの、その指……!」
すぐに異変に気づいた雛が、青ざめた顔で遥香の元へと駆け寄ってきた。
「あー、いや、ちょっとボールが変に当たっちゃってさ。大したことないよ、突き指、突き指」
遥香は安心させるように笑ってみせたが、痛みで冷や汗が流れるのを隠せなかった。
「大したことないわけないよ! こんなに腫れてる……! ちょっと待ってて、私、救急箱借りてくるから!」
雛はそう言うと、ポニーテールを振り乱しながら、もの凄い勢いで体育館の端にある救護席へと走っていった。
数分後、雛は小さな救急箱と、冷たい氷嚢を抱えて戻ってきた。その額には汗が浮かんでおり、遥香のために必死になって走ってくれたことが一目で分かった。
「ほら、遥香ちゃん、まずはこれで冷やして」
雛は遥香の隣に座ると、優しく、しかし手際よく氷嚢を遥香の指に当ててくれた。
「冷たっ……。でも、気持ちいい。ありがとな、雛」
「もう……私のために、あんなに無理するからだよ。遥香ちゃん、ずっと私の前に立って、相手の人たちを止めてくれてたでしょ? 私、分かってたよ」
雛は少し怒ったような、しかしそれ以上に今にも泣き出しそうな、心配に満ちた瞳で遥香を見つめていた。
夕暮れが近づく体育館の片隅。競技の喧騒が遠くに聞こえる中、二人の周りだけが、ぽっかりと静かな空間になっていた。
「少し冷えたから、湿布巻くね」
雛は救急箱から湿布を取り出すと、小さく丁寧にカットした。そして、遥香の大きな手を、自分の両手でそっと包み込むようにして持ち上げた。
雛の指先は、驚くほど柔らかくて、温かかった。そこから伝わってくる優しい体温と、至近距離から漂うあの「天国の匂い」が、遥香の指の痛みを不思議と和らげていくようだった。
「痛かったら、言ってね?」
「うん……大丈夫」
雛は、まるで壊れやすいガラス細工を扱うかのような手つきで、遥香の腫れた指に湿布を巻いてくれた。その真剣な横顔、少し突き出された唇、すべてが完璧すぎて、遥香の脳内のおっさんは「あぁ、突き指して良かった……いや、むしろこの指を雛に差し上げたい……」と、完全に限界を迎えていた。
◇
「はい、できたよ。これでしばらく大人しくしててね」
雛が綺麗に湿布を巻き終え、遥香の手をパッと離した。白いテーピングのように綺麗に固定された指を見て、遥香は照れくさそうに頭を掻いた。
「サンキュー、雛。おかげで、痛みがどっか行っちゃったよ」
「もう、調子いいんだから。でも、本当に無理は禁止。次の決勝戦は、私が遥香ちゃんの分まで頑張るからね」
「いや、決勝は私も出るよ!」
「ダメ! お姉ちゃんはベンチで監督です!」
雛がプンプンと頬を膨らませて言い張り、遥香は「はいはい、分かりましたよ、中村監督」と苦笑しながら従うしかなかった。
結果として、決勝戦は雛の奮闘(と、ベンチからの遥香の凄まじい大声での指示)により、見事に一年B組が優勝を飾ったのだった。
体育祭がすべて終了し、夕暮れの帰り道。
茜色に染まった道を、二人は並んで歩いていた。遥香の右手には、雛が綺麗に巻いてくれた湿布が痛みの記念碑のように白く光っている。
「今日も一日、本当に色々あったなぁ」
遥香がしみじみと呟くと、隣を歩く雛が、自然な動作で遥香の左腕に自分の腕を絡めてきた。
「ひ、雛? また距離近くないか?」
「だって、遥香ちゃんは右手が痛いんでしょ? だから、私が左側を支えてあげるの」
雛は悪びれる様子もなく、そう言って上目遣いで微笑んだ。その笑顔の破壊力は、やはり体育祭のどの競技よりも遥かに強烈だった。
腕に触れる雛の柔らかい感触、そして鼻腔をくすぐる極上のアロマ。遥香の心臓は再びうるさいほどの音を立てていたが、不思議と嫌な感じはしなかった。
父親の再婚によって突然始まった、美少女との同居生活。おっさん臭い遥香の日常はめちゃくちゃに破壊されたけれど、こうして雛と一緒に季節を重ねるたびに、世界が驚くほど鮮やかで、愛おしいものに変わっていくのを実感していた。
「これからも、何があっても私が雛を守るからね」
遥香が湿布の巻かれた右手を見つめながら静かに言うと、雛は絡めた腕にぎゅっと力を込め、嬉しそうに微笑んだ。
「うん。私の最高で、世界一かっこいいお姉ちゃん。これからも、ずっとよろしくね」
夕暮れの街路樹の影が、二人の重なったシルエットを長く、優しく路面に映し出していた。
財布は空っぽ、体は満身創痍。だけど、遥香の心の中は、雛がくれた温かい幸福感と、姉としての確かな誇りで、どこまでも満たされているのだった。




