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清楚ビッチの策略と、突然の二人きり

十一月に入り、季節はすっかり秋から冬への装いを変えつつあった。

木々を揺らす風は冷たさを増し、夕暮れの時間も一段と早くなった頃、佐藤家に激震が走った。

「――というわけで、お父さんとお母さん、二人で二泊三日の温泉旅行に行ってくるからね」

リビングの食卓で、父親のたかしがどこか鼻の下を伸ばしながらそう宣言した時、佐藤遥香さとうはるかは思わず飲んでいたコーラを吹き出しそうになった。

隆の隣では、再婚相手である中村綾あやさんが、「ごめんね、二人でお留守番になっちゃって」と、これまた実に美しく、しおらしい笑みを浮かべている。その完璧な淑女然とした佇まいに、遥香の脳内おっさんは鋭く目を光らせた。

(……出た。間違いない。あの清楚ビッチ(※遥香の主観であり根拠はゼロ)、あの手この手でうちのピュアで真面目な父親をたぶらかしたに違いないぞ)

隆の収入はまあまあ、見た目もまあまあだが、家事は適当で真面目なだけが取り柄の男だ。そんな男が、こんな色白美人の綾さんから「温泉に行きたいな」などと耳元で囁かれたら、一発で陥落するに決まっている。

「別に、旅行に行くのはいいけどさ……」

遥香が首の後ろを掻きながらボソボソと言うと、リビングのソファに座っていた義理の妹、中村雛なかむらひながパッと顔を輝かせた。

「えっ、お母さんたち旅行なの!? じゃあ、私と遥香ちゃん、二人きりでお留守番?」

「あ、ああ……。まあ、そうなるな」

雛のその「二人きり」という言葉の響きに、遥香の心臓がドクンと嫌な、いや、良すぎる跳ね方をした。

これまで文化祭や体育祭を経て、遥香の「雛の専属マネージャー兼SP」としての絆は強固なものになっていた。しかし、それらはあくまで学校というパブリックな空間での話だ。いくら同じ家に同居しているとはいえ、普段は両親がいる。

それが、二泊三日の間、完全に遮るもののない「二人きりの空間」になるのだ。

「ご飯の支度とか、一応お金は置いていくから。二人で仲良くやるんだぞ」

隆がそんな呑気なことを言いながら財布を取り出している。

両親が一緒に行く旅行など、遥香としては一ミリも同行したくはないので留守番自体は望むところだったが、問題はその同居人だ。お菊人形とフランス人形を足して二で割ってK―POPを足したような、国宝級の美少女と密室で二人きり。

(……緊張するなと言う方が無理な話だろ、ちくしょう!)

遥香は、早くも興奮と緊張で落ち着かなくなる自分の心を必死に宥めながら、旅行カバンを嬉しそうに確認する両親を遠い目で見つめるしかなかった。



そして土曜日。両親が「それじゃあね!」と文字通り浮かれた様子で家を出て行った瞬間、佐藤家にはかつてない静寂が訪れた。

いつもなら、ジャージ姿でリビングの床に転がり、お菓子とジュースで二次元を貪っている遥香だったが、今日ばかりは背筋が伸びてしまって落ち着かない。

「遥香ちゃん、今日の晩ご飯、何にする?」

キッチンから、エプロン姿の雛がひょっこりと顔を出した。そのエプロン姿は、何度見ても遥香の脳内カメラのシャッターを全開にさせる破壊力がある。

「え、ええと……。隆が結構お小遣い置いていってくれたし、なんかちょっと贅沢なものでも食べるか?」

「贅沢なもの? じゃあ……すき焼きがいいな! お肉、ちょっといいやつ買ってきて、二人で作ろ!」

「お、おう、すき焼きか。いいな、賛成だ」

二人は早速、駅前のスーパーへと買い出しに出かけた。雛にプロデュースしてもらった少しお洒落な私服を着て、雛と並んで歩く道すがら、遥香の心臓は相変わらずバックバクだったが、スーパーに入るとオタク特有の「素材へのこだわり」が頭をもたげた。

「雛、すき焼きの肉はやっぱり国産の霜降りだ。隆の財布を限界まで削ってやろう」

「ふふ、遥香ちゃん、お父さんがいないと急に強気になるんだね。あ、お豆腐と白菜も買わなきゃ」

カートを押す遥香と、そこに次々と食材を入れていく雛。その光景は、客観的に見れば、どう見ても「買い出しにきた若い新婚夫婦」そのものだった。周囲の主婦たちから「あら、仲のいい姉妹ね」なんて視線を感じるたびに、遥香の脳内のおっさんは「姉妹ちゃうわ、夫婦や!(仮)」と大暴れしていた。

家に帰り、二人はキッチンに並んで調理を開始した。

「遥香ちゃん、ネギは斜めに切ってね」

「任せろ。文化祭の粉まみれの特訓を経て、私の調理スキルは確実にレベルアップしているからね」

トントンと小気味よい包丁の音が響く。雛が特製の割り下を鍋に注ぐと、醤油と砂糖の甘辛い、たまらない匂いがリビングに広がり始めた。

「よし、準備完了! 食べよ、遥香ちゃん!」

食卓の中央に置かれたカセットコンロの上で、お肉がジューッと良い音を立てて焼けていく。

溶き卵にたっぷりと絡めたお肉を口に運んだ瞬間、遥香の脳内は幸福感で満たされた。

「……うまっ。何これ、最高なんだけど」

「おいしい! 遥香ちゃんの切り方、ネギがすっごく味が染みてて美味しいよ」

雛がハフハフと白い湯気を吐きながら、嬉しそうに微笑む。

湯気の向こう側に見える、雛の少し上気した美しい顔。二人で一つの鍋を突き合い、「これ美味しいね」「次はこれ食べよ」と言い合う時間。それは、普段のズボラな男二人暮らし時代には絶対にあり得なかった、信じられないほど甘くて温かい時間だった。

(……あぁ、本当に新婚夫婦みたいだ。もしこれが二次元のラブコメなら、私はここで悶絶して死んでるな)

遥香は、心の中のおっさんを必死に抑え込みながら、雛との特別な夕食を噛み締めていた。



楽しい夕食の後、二人で協力して片付けとお風呂を済ませると、時計の針は急速に夜の十時を回っていた。

お風呂上がりの雛は、以前のクリスマス(あるいは普段の部屋着)で着ているような、これまた可愛いパジャマ姿で、髪からはシャンプーのあの「天国の匂い」がこれでもかと漂っている。

「ふぅ……。お腹いっぱいだし、なんだか眠くなってきちゃった」

雛が小さく欠伸をしながら、トントンと自分の肩を叩く。

「そうだな。じゃあ……そろそろ、寝るか」

遥香はその言葉を口にした瞬間、急激に緊張の波が押し寄せてくるのを感じた。

佐藤家では、いつもそれぞれの個室、それぞれのベッドで寝ている。同居しているのだから、それは当然のルールであり、当たり前のことだ。今日も、ご飯を一緒に食べて、お風呂に入って、そこまでは特別な時間だったけれど、ここからは「それぞれの夜」に戻る。

(やっぱり、いつもと同じく、別々のベッドで寝るんだよな……)

遥香は、自分の部屋のベッドの布団に入りながら、天井を見つめていた。

心の中は、実に見事なまでに二つの感情に引き裂かれていた。

半分は、強烈な「がっかり」だ。せっかく両親がいない二人きりの夜なのだから、もう少し何か、映画を夜通し見るとか、そういう特別なイベントがあっても良かったのではないか、というオタク兼おっさんとしての未練。

そして、もう半分は、底知れない「安心」だった。もし、万が一にでも雛が「一緒に寝よ?」なんて言い出したら、遥香の理性の防衛線は一瞬で崩壊し、緊張のあまり一睡もできずに朝を迎えることになる。自分の心臓のバクバク音が雛に聞こえてしまう恐怖から逃れられたという意味で、別々に寝るという現実には心からホッとしていた。

「よし……。大人しく寝よう。明日は明日で、また雛と一日中一緒にいられるんだから」

遥香は自分に言い聞かせるように呟き、部屋の明かりを消した。

静まり返った部屋。窓の外では、秋の終わりの風が冷たく音を立てている。遥香は布団を頭まで被り、目を閉じた。

しかし、どれだけ羊を数えても、目を瞑っても、脳裏に焼き付いた「エプロン姿の雛」や「すき焼きを食べる雛の笑顔」、そしてあの「いい匂い」が頭から離れず、全く眠りにつくことができなかった。



時計の針が、深夜の十二時を回ろうとしていた頃だった。

完全に寝付けず、布団の中で寝返りを繰り返していた遥香の耳に、静かな廊下からかすかな音が聞こえてきた。

トントン、と。

それは、気のせいでなければ、遥香の部屋のドアを叩く、極めて控えめなノックの音だった。

「……ん? 誰だ? って、雛しかいないよな」

遥香はバッと布団を跳ね除け、ベッドの上に上半身を起こした。

「遥香ちゃん……? まだ、起きてる……?」

ドアの向こうから、蚊の鳴くような、今にも消え入りそうな雛の声が聞こえてきた。

「お、おう! 起きてるぞ! どうした、雛?」

遥香が声をかけると、ゆっくりとドアが開いた。

部屋の入り口に立っていたのは、自分の部屋から持ってきた大きな枕を、両手でぎゅっと胸に抱きしめた雛の姿だった。

廊下の薄明かりに照らされた雛の顔は、どこか不安げで、少しだけ潤んだ瞳が遥香をまっすぐに見つめていた。

「あのね……お家の中、静かすぎて……なんだか、すっごく心細くなっちゃって……」

雛はもじもじと足を動かしながら、消え入りそうな声で言葉を続けた。

「いつもはお母さんたちの気配があるのに、今日は誰もいないから……。それに、外の風の音が、ちょっと怖くて……。だから、あの……」

雛は胸の枕をさらに強く抱きしめ、上目遣いで遥香を見つめた。

「……遥香ちゃんの部屋で、一緒に寝ても、いい……?」

ドゴォォォン!!!

遥香の脳内で、今世紀最大級の爆発音が響き渡った。

先ほどまで頭の中で考えていた「半分のがっかり、半分の安心」の防衛線が、天使のこの一言によって、音を立てて粉々に粉砕されたのだ。

(一緒に!? 寝る!? この部屋で!? 私のベッドで!?)

パニックを通り越して、遥香の魂は一瞬宇宙の果てまで臨死体験をしに行っていた。しかし、目の前で不安そうに身を縮めている雛を前にして、断るという選択肢など地球上に存在するはずがなかった。

「あ、いい、いいぞ! 全然いい! ほら、寒いでしょ、早く入りな!」

遥香は慌てて自分のベッドのスペースを空け、布団をめくった。

「ありがとう……遥香ちゃん」

雛はホッとしたように小さな息を漏らすと、トコトコとベッドへと近づき、遥香の隣へと潜り込んできた。



狭いシングルベッドの上。

二人は、同じ布団の中で、信じられないほどの至近距離で横になっていた。

ベッドのシーツ越しに伝わってくる、雛の信じられないほどの柔らかさと、その確かな体温。そして、布団の中に充満する、雛の纏うあの「天国の匂い」――甘くて清潔なアロマが、遥香の鼻腔をダイレクトに、全力で破壊しにきていた。

(あ、アカン……! これはガチで呼吸ができないやつや……!)

遥香は完全に硬直し、仰向けのまま、まるでミイラのように微動だにできなくなっていた。心臓の鼓動が、ドクドク、バクバクと激しく波打ち、静かな部屋の中に響き渡っているのではないかと戦々恐々とする。

「……遥香ちゃん」

すぐ隣から、雛の静かな声が聞こえた。

「ん、ん? どうした、雛?」

遥香が首だけを恐る恐る雛の方へと向けると、雛もまた、こちらを向いて横たわっていた。暗闇に目が慣れてくると、雛の長い睫毛や、形の良い唇が、わずか数十センチの距離にあるのが分かった。

「お布団、あったかいね」

「そう、だな……。二人のほうが、あったかいよな」

「うん。……ねえ、遥香ちゃんの手、貸して?」

「え?」

雛は布団の中から自分の小さな手を伸ばすと、遥香の左手をきゅっと握りしめてきた。

その手のひらの柔らかさと、優しさに、遥香の体からすっと余計な緊張が抜けていくのが分かった。

「前の学校の時はね、こういう時、いつも一人で寂しかったの」

雛が、ぽつり、ぽつりと静かに語り始めた。

「でも、今の家には遥香ちゃんがいるから。お姉ちゃんが、いっつも私の前に立って守ってくれるから。だから、私、本当に毎日が楽しいんだよ」

雛の言葉は、真っ直ぐに遥香の胸の奥へと染み込んできた。

マネージャーを名乗り、文化祭や体育祭で雛のためにがむしゃらに暗躍し、奮闘してきたこと。中身はおっさんで、下心クンクンしたいとかまみれの自分だけれど、雛はそんな遥香を、心から「信頼できるお姉ちゃん」として必要としてくれているのだ。

(……あぁ、もう。本当に、愛おしいな、ちくしょう)

遥香の心の中にあった邪念は綺麗に吹き飛び、ただ純粋な「この子を生涯かけて守り抜く」という姉としてのプライドと愛が、胸いっぱいに広がった。

遥香は、握られた雛の手を、少しだけ強く握り返した。

「当たり前でしょ。雛が寂しい時は、いつでも私のところに来ていいんだからね。私はずっと、雛の専属SPなんだから」

「ふふ……うん。ありがと、遥香ちゃん」

雛は嬉しそうに微笑むと、安心したように目を閉じ、遥香の腕に体を少し擦り寄せた。

しばらくすると、雛の規則正しい、静かな寝息が聞こえ始めた。

二人は同じベッドで、初めての夜を明かすことになった。

外を吹く冷たい風の音も、今の二人の間にある圧倒的な温かさの前には、何の意味もなさなかった。遥香は、隣で無防備に眠る世界一の美少女の寝顔を見つめながら、この特別な夜の記憶を、一生大切に胸に抱き続けようと、静かに目を閉じるのだった。


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