未知なる戦場、きらめきのショッピングモール
秋の気配が混じる風に吹かれながら、電車に揺られること約十分。佐藤遥香と中村雛の二人が降り立ったのは、駅前にそびえ立つ地域最大級の大型ショッピングモールだった。
日曜日ということもあり、自動ドアをくぐった先には、家族連れやカップル、そしていかにも「お洒落を楽しんでいます」といった風情の若者たちがひしめき合っている。吹き抜けの天井から差し込む太陽光と、各店舗から流れる洗練されたBGM、そしてそこかしこから漂うフレグランスの香り。そのすべてが、普段ジャージ姿で部屋の隅に生息している遥香にとっては、目眩を覚えるほどの眩しさだった。
「わあ、やっぱり日曜日だから混んでるね、遥香ちゃん!」
雛が嬉しそうに声を弾ませ、遥香の腕をぎゅっと抱きしめるように引き寄せた。
白のシフォンブラウスにデニムのミニスカートという雛の私服姿は、このきらびやかなモールの中でも一際目を引いていた。すれ違う人々、特に同年代の男子学生たちが、一斉に雛へと視線を注いでいくのが分かる。その度に、遥香の脳内マネージャーが「おいコラ、そこのお前、雛をジロジロ見るな!」と威嚇の声を上げるのだが、同時に別の問題が遥香を襲っていた。
(あ、アカン……。雛の体温と、あのいい匂いがダイレクトに脳髄を刺激してくる……!)
腕に伝わる信じられないほどの柔らかさと、至近距離から漂うシャンプーの甘いアロマ。遥香の心臓は、さながらドラムの連打のようにバックバクと激しい音を立てていた。いくら中身がおっさん、いや、おっさんだからこそ、このシチュエーションは刺激が強すぎるのだ。
「遥香ちゃん、まずはあっちの、お洋服屋さんから行ってみよ? あそこ、可愛いカジュアル系がたくさんあるんだよ」
「お、おう……。雛の、好きに進めてくれ……」
遥香は引きつった笑みを浮かべ、雛に促されるままに歩き出した。
内心は完全にキャパシティオーバーだった。何しろ、女子高生と二人きりで「買い物」という名のデート(仮)をするなど、人生初の経験なのだ。二次元の美少女を画面越しに眺めるのとは訳が違う。生身の、それも国宝級の美少女が自分の腕に絡みついているという現実だけで、遥香の精神は消滅寸前だった。
◇
雛に連れられて入ったのは、パステルカラーの照明が美しい、いかにも「今どきの女の子」が集まりそうなアパレルショップだった。ハンガーに掛けられた色とりどりの服を前にして、雛の瞳はキラキラと輝いている。
「ねえねえ、遥香ちゃん! このくすみピンクのパーカーとか、絶対に似合うと思うんだよね! 黒のカーゴパンツにも合わせやすいし!」
「……そう、だな。いいんじゃ、ないか」
遥香の口から出たのは、そんな文字通りの「生返事」だった。
どうしたことだろう、会話が全く弾まない。
学校では、雛を守るための「有能なマネージャー」として、あれほど図太く男どもを怒鳴り散らしていたというのに、いざプライベートで二人きりになり、お洒落な空間に放り込まれると、言葉が喉の奥で消えてしまうのだ。
(何これ、私どうしちゃったの!? もっとこう、気の利いた返しとか、女子高生らしいトークってやつがあるでしょ!?)
遥香は心の中で激しく自分を責めた。しかし、焦れば焦るほど、思考はおっさん化していく。
(今の私の会話の弾まなさ、マジで『若い女子高生と無理やりデートすることになった中年のおっさん』そのものじゃん……。何を話していいか分からなくて、とりあえず相手の意見に『そうだね』って合わせるしかできない、あの哀れな生き物だよ……)
あまりの情けなさに、遥香は内心で頭を抱えた。雛が楽しそうに服を選んでくれているのが、せめてもの救いだったが、自分のこのコミュ障ぶりが雛を退屈させていないか、不安で仕方がなかった。
「遥香ちゃん、これ試着してみて!」
雛が差し出してきたのは、白いシンプルなロゴTシャツと、ベージュの綺麗なシルエットのロングスカートだった。
「え、スカート!? 私、制服以外でスカートなんて着ないぞ!?」
思わず素の声で拒絶の言葉が出る。普段はジャージやスウェットしか好まない遥香にとって、生足を晒すスカートという衣類は、防御力がゼロに等しい危険物だった。
「もう、だからこそだよ! いっつもおっさん臭い格好ばっかりしてちゃダメ! ほら、早く!」
雛に背中をグイグイと押され、遥香は観念して試着室へと転がり込んだ。
カーテンを閉め、狭い空間で自分の泥臭い私服を脱ぎ、雛が選んでくれた服に袖を通す。鏡の前に立った遥香は、そこに映る自分の姿に目を疑った。
普段のジャージ姿からは想像もつかないほど、そこには「ちゃんとした女子高生」がいた。ロングスカートが縦のラインを強調し、意外とスタイルが良いという遥香の隠れた長所を引き出している。
「……あれ。私、意外といける、のか?」
恐る恐る試着室のカーテンを開けると、待ち構えていた雛が「わあ……!」と両手を頬に当てて歓声を上げた。
「やっぱり! すっごく可愛いよ、遥香ちゃん! 絶対こっちの方がいい!」
雛の屈託のない絶賛の言葉と、その真っ直ぐな笑顔。それだけで、遥香の胸の奥がキュンと締め付けられた。会話が弾まないおっさんな自分を、雛はこんなにも一生懸命にプロデュースしてくれている。
「……ありがとな、雛。じゃあ、これ、買うわ」
少しだけ緊張が解け、遥香は自然な笑顔でそう言うことができた。
◇
服と下着の買い物を無事に終え(下着選びの際は、雛が「遥香ちゃんにはこれがいいよ!」と可愛いデザインのものを次々と持ってくるため、遥香は顔面が爆発するほど赤面した)、二人はモールの最上階にあるアミューズメントエリアへとやってきた。
買い物ついでに立ち寄ったその場所は、最新のクレーンゲーム機がズラリと並び、カプセルトイの自販機が壁一面を埋め尽くす、遥香のようなオタクにとっても別の意味で馴染み深い空間だった。
「あ、クレーンゲームだ! ねえ、遥香ちゃん、ちょっと見ていこうよ!」
雛が子供のように目を輝かせて、遥香の袖を引く。
「いいぞ。小休止にはちょうどいいな」
服の買い物という慣れない戦場を終え、少し気が緩んでいた遥香は、快く承諾した。それが、さらなる恐ろしい戦いへの幕開けだとも知らずに。
二人が歩いていると、雛があるクレーンゲーム機の前でピタリと足を止めた。
「あ……これ、可愛い……」
ガラスの向こうに並んでいたのは、今女子高生の間で大流行しているという、ゆるふわな動物の特大ぬいぐるみだった。
「遥香ちゃん、見て。あのアザラシさん、すっごく可愛くない?」
雛がガラスに顔を近づけ、潤んだ瞳でぬいぐるみを見つめている。そして、チラリと遥香の方を振り返り、両手を合わせて言った。
「あのね……私、こういうの自分じゃ全然取れなくて。遥香ちゃん、ゲームとか詳しそうだから、もし良かったら……取って、ほしいな……なんて」
上目遣い。破壊力抜群の、天使のディフェンス不能なおねだりだった。
(うっ……! こ、これは……!)
遥香の脳内のおっさんが、一瞬で「よっしゃ任せとけ!」と財布を握りしめて立ち上がった。美少女におねだりされて、断る男(中身はおっさんだが)などいるだろうか、いやいない。
「フッ、任せなさい。この佐藤遥香、二次元とゲームの世界で生きてきた身として、これくらいのクレーンゲーム、一発で仕留めてみせるよ」
格好をつけて、遥香は財布から百円玉を取り出し、投入口へと滑り込ませた。
ウィーンと音を立てて動くアーム。遥香は真剣な眼差しでボタンを操作し、アザラシの脳頭部へとアームを誘導した。
(ここだ、落とせ!)
ガシャリとアームが下り、アザラシの体をしっかりと掴み上げる。
「あ、すごい! 持ち上がった!」
雛が歓声を上げる。しかし、アームが上昇した瞬間、ぬいぐるみの重さに耐えかねて、ズルリとアザラシは元の位置へと落下してしまった。
「あー……惜しい! あとちょっとだったのに!」
雛が悔しそうに地団駄を踏む。その姿すら可愛くて、遥香の闘争心に完全に火がついた。
「クッ、アームの強さが少し緩いな……。だが、位置はズレた。もう一回やれば、次こそいける!」
さらに百円を投入する。しかし、二回目もアザラシは無情にも手前で落下した。
「あ、あれ……? おかしいな」
「遥香ちゃん、がんばって!」
雛の声援が、遥香の理性を焼き切った。ここで諦めたら、姉としての、そして男(中身)としてのプライドがズタズタである。気づけば、遥香は財布から五百円硬貨を次々と取り出し、両替機を往復するマシーンと化していた。
◇
格闘すること十数回。累計で二千円近くを費やしたところで、ついにアザラシのぬいぐるみはゴトンと取り出し口へと転がり落ちた。
「やったぁーーーっ!!」
雛が飛び跳ねて喜び、大きなぬいぐるみを抱きしめた。
「本当に取ってくれるなんて、遥香ちゃん、すごすぎる! お兄ちゃんみたいで、すっごく格好いい!」
「ハハ……まあ、これくらい余裕だよ」
遥香は引きつった笑みで、冷や汗を拭った。内心では(二千円か……。今月の新作フィギュアの予算が……)と、かなりのダメージを受けていたのだが、雛の「格好いい」という言葉の前には、そんな痛みは容易く吹き飛んだ。
しかし、悪夢はこれで終わりではなかった。
ぬいぐるみを抱えた雛が、次に目を留めたのは、通路にズラリと並んだカプセルトイ(ガチャガチャ)のコーナーだった。
「あ! これ、私の大好きなアニメのミニチャームだ! え、シークレットがあるんだ……可愛いなぁ」
雛はカプセルの中身が描かれたパネルを熱心に見つめている。
「一回、三百円か。雛、やってみれば?」
「うん! あ、でも……百円玉が、もうないや。お財布、おっきいお札しかなくて……」
雛が困ったように首を傾げる。
その時、遥香の財布の中には、先ほど両替したばかりの百円玉が、まだいくつか残っていた。
「あ、私の使っていいよ。はい、三百円」
「え、いいの? ありがとう、遥香ちゃん!」
雛は嬉しそうにコインを受け取り、ガチャガチャのハンドルを回した。「カチャカチャ、ポン」と小気味よい音を立てて出てきたのは、お目当てのキャラクターとは別の種類のものだった。
「あ、これもう持ってるやつだ……。うーん、やっぱりシークレットは出ないかぁ」
雛が少し残念そうに唇を尖らせる。その表情を見た瞬間、遥香の中の「オタクの血」と「おっさんの貢ぎ癖」が最悪の化学反応を起こした。
「……雛。シークレットが出るまで、私が付き合ってあげるよ」
「えっ!? でも、遥香ちゃんのお金だし……」
「いいのいいの! オタクたるもの、目当てのグッズが出るまでガチャを回し続けるのは義務だからね! ほら、もう一回行きな!」
完全にブレーキが壊れていた。遥香は財布から次々と百円玉を雛に手渡した。
「カチャ、ポン」「あ、また違うの……」
「カチャ、ポン」「うわ、これ三つ目だよ……」
回せども回せども、お目当てのシークレットは姿を現さない。物欲センサーという名の見えない壁が、二人の前に立ち塞がっていた。
そして――。
「あ……」
遥香が財布の小銭入れを覗き込んだ時、そこには一枚の硬貨も残っていなかった。それどころか、千円札が入っていたはずの札入れも、完全に空っぽになっていた。
今日のために用意していた予算。自分の服や下着を買い、余った分で少し遊ぼうと思っていたお金が、雛への「ぬいぐるみ」と「ガチャガチャ」の投資によって、綺麗サッパリ消滅していたのだ。
(……終わった。私の、今月の全財産が、逝った……)
ガクッと膝から崩れ落ちそうになるのを、遥香は必死に堪えた。内心は完全に真っ暗闇、大粒の涙が止まらない絶望の淵に立たされていた。
◇
「遥香ちゃん、本当にごめんなさい……。私がいっぱいおねだりしちゃったから、遥香ちゃんの予算、全部なくなっちゃったんだよね……」
モールの外にあるテラス席のベンチ。雛は、腕に抱えたアザラシのぬいぐるみをきゅっと抱きしめ、今にも泣き出しそうな顔で遥香を見つめていた。彼女の足元には、シークレットが出ないまま山積みになったカプセルトイの殻が転がっている。
自分の予算以上に出費をしてしまい、内心激しく落ち込んでいた遥香だったが、その雛の申し訳なさそうな表情を見た瞬間、胸の痛みが一瞬で消え去るのを感じた。
「何言ってるんだよ、雛」
遥香は、先ほど買ったばかりの新しいロングスカートの裾を少し直しながら、できるだけ優しい声で言った。
「私が勝手に熱くなって回したんだから、雛のせいじゃないよ。それにさ……見てみなよ、それ」
遥香が指差したのは、雛が最後に回したカプセルから出てきた、小さなチャームだった。それは、キラキラとしたホログラム加工が施された、紛れもない「シークレット」のキャラクターだった。
「結果的に、目当てのやつが出たんだから、大勝利じゃん。オタクの世界じゃ、出るまで回せば『実質一発』って言うんだよ」
「遥香ちゃん……」
雛の瞳に、じわりと涙が浮かぶ。しかし、次の瞬間には、それをかき消すような満面の笑みが、彼女の顔に広がった。
「うん……! ありがとう、遥香ちゃん! 私、このアザラシさんも、このチャームも、一生ずーっと大切にするね!」
夕日に照らされた雛の笑顔は、モールのどんなきらびやかな照明よりも、遥香が愛するどんな二次元の美少女よりも、遥かに美しく、眩しかった。
その笑顔を見た瞬間、遥香は「ああ、破産して良かったな」と本気で思った。財布は完全に空っぽで、明日からの昼ご飯はお菓子とジュースすら怪しい極貧生活が確定したが、この美少女の笑顔を特等席で見られたのだ。これ以上の幸福な投資が、他に投資があるだろうか。
「さ、帰ろうか、雛。お腹空いたし」
「うん! 今日の晩ご飯は、私が遥香ちゃんの分もいーっぱい腕を振るってあげるからね!」
雛は立ち上がると、また自然な動作で遥香の腕に自分の腕を絡めてきた。
二人の影が、夕暮れの路面に長く伸びていく。
会話があまり弾まない中年のおっさんのようなデート(仮)だったけれど、不器用なりに雛を喜ばせることができたという充実感が、遥香の胸を満たしていた。
財布の中身はゼロ。だけど、心の中は、雛がくれた温かい幸福感でいっぱいだった。遥香は、隣で嬉しそうに歩く義理の妹の横顔を盗み見ながら、この先も彼女のためなら、何度でも破産してやろうと、密かに心に誓うのだった。




