脱衣所の衝撃と、現実の突きつけ
それは、実にあっけない、しかし遥香にとっては世界がひっくり返るほどの衝撃を伴った遭遇だった。
九月も中旬に差し掛かろうという、ある土曜日の午前中。
父親の隆は休日出勤で朝から不在、新しく母親になった綾さんもパートに出かけており、家の中には遥香と、義理の妹になった中村雛の二人だけが残されていた。
普段なら、遥香は土曜日ともなれば正午近くまで泥のように眠り、起きてからは首元が伸びきった高校の指定ジャージ(通称:緑芋ジャージ)を着たまま、お菓子をつまんで二次元の美少女を貪る生活を送っている。しかしその日は、珍しく早く目が覚めてしまった。
「あー……喉乾いた。コーラ飲も」
おっさんさながらに首の後ろをバリバリと掻きながら、一階の居間へと下りていく。その途中、なんとなく洗濯機が回っていないことに気づいた。佐藤家の家事は、遥香と父の適当極まる男二人暮らし時代からの名残で、今も「気づいた人間がやる」というルーズなルールで動いている。綾さんと雛が来てからは随分と文明的な生活になったが、甘えてばかりもいられない。たまには姉らしいところを見せておこうと、遥香は気まぐれに脱衣所へと足を踏み入れた。
そして、洗濯カゴを覗き込んだ瞬間、遥香の動きは完全に停止した。
「……っ!?」
そこにあったのは、今まさに洗濯を待っている、雛のものと思われる衣類の数々だった。
いや、ただの衣類ではない。それは、遥香のような「おっさん女子」の理解を遥かに超越した、極上の芸術品のごときファブリックの山だった。
淡いパステルカラーのブラウス、繊細なレースがあしらわれたスカート、そして……何より遥香の目を釘付けにしたのは、その上にそっと置かれていた下着類だった。決して下品な意味ではない。それは絹のように滑らかな生地で、少女らしい可憐さと、どこか大人びた上品なデザインが完璧に調和した、まさに「中村雛」という美少女を包むために誂えられたかのような、神聖な衣だった。
おまけに、まだ洗濯前だというのに、そこからは雛がいつも纏っているあの「天国の匂い」――甘いシャンプーと清潔な柔軟剤が混ざり合った極上のアロマが、かすかに、しかし確実に漂ってきているのだ。
(う、美しすぎる……。これが、本物の美少女のプライベート・クローゼットの一部……!)
遥香の脳内のおっさんが、あまりの尊さに両手を合わせて拝み始める。偶然目にしてしまったその洗練された世界の眩しさに、頭の芯がジンと熱くなり、密かに激しい興奮が込み上げてくるのを止められなかった。
しかし、その興奮は、次の瞬さに訪れた「絶望」によって一瞬で凍りついた。
雛の美しい洗濯物のすぐ隣。同じカゴの隅に、哀れにも丸め込まれていたのは、遥香の私服だった。
それは、中学生の頃から愛用している、全体的に毛玉がびっしりと浮き出たグレーのスウェット。そして、何度も洗濯を繰り返したせいでゴムが伸びきり、もはや原型を留めていないヨレヨレの、お世辞にも「女子高生のもの」とは呼べない、おっさん御用達のような下着。
(……え、待って。これ、並んでるの犯罪じゃない?)
並べて置かれた二つの世界の格差は、あまりにも残酷だった。雛の衣類が「銀座の高級ブティック」なら、遥香の衣類は「閉店セールのゴミ捨て場」である。
これまで遥香は、「誰も見てないし、楽ならジャージで十分」と本気で思っていた。イケメンより美少女が好きだし、自分がどう見られるかなどどうでもよかったのだ。だが、こんな完璧な美少女が同じ家の中に住み、遥香のすぐ隣を歩いているのだ。もし、雛が何かの拍子に遥香のこのボロボロの服や、伸びきった下着を目にしたらどう思うだろう。
『遥香ちゃんって、おっさんみたい……ううん、おっさんそのものだね』
脳内で、雛が悲しそうな、あるいは軽蔑を孕んだ目で遥香を見下ろす幻聴が再生された。
「あ、アカン……! これはガチでアカンやつや!」
全身から嫌な汗が噴き出す。いくら中身がおっさんとはいえ、遥香はこれでも高校一年生の女子なのだ。雛に「おっさん」認定され、幻滅されることだけは、何としても阻止しなければならない。
遥香はハッと我に返ると、猛烈な勢いで脱衣所を飛び出し、自分の部屋へと駆け上がった。
◇
自室に戻った遥香は、勢いよくクローゼットの扉を開け放ち、中をひっくり返した。
「ない……ない……本当に、まともな服が着る一着もない……!」
ハンガーに掛かっているのは、高校の制服、数種類の部活ジャージ(帰宅部なのに、なぜか持っている)、そして父親から「これ着なくなったからやるよ」と言われて貰った、渋い色合いのメンズ物のチェックシャツ。引き出しを開ければ、出てくるのはすべて「着心地の良さ(=ゴムの緩さ)」だけを追求した、色気ゼロの下着たち。
二次元の美少女フィギュアやグッズには惜しみなく金を注ぎ込んできたツケが、今ここに、完全なる「ファッション破産」として跳ね返ってきたのだ。
「終わった……。これで雛と一緒に歩いてたなんて、私はただの不審者じゃないか」
ベッドに倒れ込み、枕に顔を埋めて悶絶する。
遥香は「雛の専属マネージャー」を自称し、学校で彼女に群がる男どもを蹴散らした。しかし、こんなボロボロの格好をした人間がマネージャーを名乗るなど、トップアイドルの横に小汚い浮浪者が立っているようなものである。雛のブランド価値を、遥香の服装が著しく損ねているのだ。
(買い替えよう。今すぐに、ちゃんとした女の子の服と下着を!)
決意は固まった。だが、ここで第二の問題が立ち塞がる。
遥香は、まともなレディースの服を取り扱う店に、一人で入る勇気がない。最後にちゃんとした服を買ったのはいつだったか、それすら記憶にないのだ。お洒落なアパレルショップのキラキラした空間、そして「何かお探しですか〜?」と満面の笑みで近づいてくる店員は、遥香にとってラスボス以上の恐怖の対象だった。
(誰か、ファッションが分かる味方が必要だ……。でも、友達に頼むのは『佐藤って普段あんなジャージなのに急にどうしたの?』って思われそうで恥ずかしい……)
ぐるぐると思考を巡らせた結果、遥香の脳裏に、唯一の、および最高の選択肢が浮かび上がった。
中村雛、その人である。
彼女はいつも完璧にお洒落で、トレンドにも詳しい。何より、同じ家に住む妹だ。
(いやいや、でも待てよ! 雛に『服買いに行きたいから付き合って』なんて言ったら、遥香のこの酷いファッションセンスが最初からバレるじゃん! それに、下着なんて買いに行くところを見られたら、恥ずかしさで死ぬ!)
心の中の小心者な遥香が猛反対する。
しかし、もう一人の中身おっさんな遥香が言った。
『アホかお前! 雛と一緒に買い物に行けるチャンスやぞ!? 服を選んでもらえるんやぞ!? デート(仮)やないか!』
「……っ!」
その通りだ。これはピンチであると同時に、雛と二人きりでプライベートな休日を過ごせる、またとないビッグチャンスなのだ。
恥を忍んで雛を誘うか、それともこのままおっさんとして生きていき、いずれ雛に完全に見捨てられるか。天秤にかけるまでもなかった。
「よし……行くぞ、佐藤遥香。一生の不覚をここで帳消しにするんだ!」
遥香はバッと立ち上がると、まだ少し震える足で、階段を下りていった。
◇
一階の居間に入ると、雛はソファに座って、スマートフォンで何かの動画を見ていた。ポニーテールにまとめた黒髪が、彼女が首を傾げるたびに揺れている。家の中でも、彼女はセンスの良いサマーニットを着こなしており、やはり遥香とは住む世界が違っていた。
「あ、遥香ちゃん。起きたんだ。コーラ、冷蔵庫にあるよ」
雛が画面から顔を上げ、花が咲くような笑顔を向けてくれる。
「お、おう。サンキュー……」
遥香は冷蔵庫からコーラを取り出し、コップに注ぐフリをしながら、どうやって切り出すべきか必死にシミュレーションを行った。
(自然に、あくまで『ちょっと用事があるから付き合ってよ』風を装うんだ。下心が透けたら終わりだぞ、自分!)
ゴクリとコーラを飲み干し、遥香は意を決してソファの方へと歩み寄った。
「あのさ、雛」
「ん? どうしたの?」
雛はスマホを置き、まっすぐな瞳で遥香を見上げてくる。その透明感溢れる視線に、早くも遥香の心臓が「ドクン」と大きく跳ねた。
「ええと、そのだな……。今日の午後、もし時間あったりする?」
「午後? うん、特に予定はないよ。お母さんも遅いって言ってたし」
「そ、そうか! それは好都合……じゃなくて。あの、実はさ、ちょっと買い物に行きたいなと思ってて」
「お買い物? いいよ、何買うの? 晩ご飯の材料?」
無邪気に尋ねる雛。遥香はここで、今日一番の勇気を振り絞らなければなかった。恥ずかしさで顔がカッと熱くなるのを覚えながら、遥香は視線を斜め下に逸らして、ボソボソと言った。
「いや……その、遥香の、服とか……下着、とかを……買い替えようかなって……」
「えっ?」
雛が少し驚いたように目を見開いた。
その反応に、遥香は完全にパニックになった。やっぱり変に思われたか、おっさんが急に色気づいたと思われるのではないか、と。
「いや! ほら! 遥香って、普段こういうジャージばっかりじゃん! でも、学校でも雛のマネージャーやってるわけだし、あんまりボロボロの格好してたら、雛の姉として恥ずかしいかなって! でも遥香、お洒落な店とか全然分かんないし、店員さん怖いし! だから、もし良かったら、雛に選んでほしいな、なんて……ダメ、かな?」
一気に捲し立て、最後は消え入りそうな声で尋ねる。遥香の顔は、おそらく茹で上がったタコのように真っ赤になっていたはずだ。
数秒の、恐ろしいほどの沈黙。
遥香が「あ、やっぱり無理ならいいんだ!」と前言撤回しようとした、その時。
「……本当!?」
雛が勢いよくソファから立ち上がった。その顔は、驚きから一転して、まるでクリスマスプレゼントを見つけた子供のようにキラキラと輝いていた。
「え?」
「遥香ちゃんの服を、私が選んでいいの!? やったぁ! 私、ずっと遥香ちゃんとお買い物に行きたかったの! 遥香ちゃん、スタイル良いし、ちゃんとしたお洋服着たら絶対すっごく可愛くなるのに、いっつもジャージだからもったいないなって思ってたんだ!」
雛は遥香の両手をギュッと握りしめ、弾んだ声でそう言った。
手のひらから伝わってくる、雛の温かさと柔らかさ。そして、彼女の口から飛び出した「絶対すっごく可愛くなる」という言葉。
(……女神。ここにいたのは、紛れもない女神や……)
遥香の脳内のおっさんは、感動のあまり男泣きしていた。遥香の酷い格好を馬鹿にするどころか、ずっと一緒に買い物に行きたかったと言ってくれたのだ。
「じゃあ、すぐに準備するね! 駅前のショッピングモールに行こう!あそこ、可愛いお店がたくさんあるんだから!」
雛は嬉しそうに足取りも軽く、自分の部屋へと準備をしに戻っていった。
残された遥香は、握られた手の余韻に浸りながら、深い安堵の息を漏らした。
「……よし。なんとかなった。いや、むしろ大勝利だ」
こうして、おっさん女子・佐藤遥香の、人生初となる本格的な「お洒落ショッピング」への挑戦が、幕を開けたのだった。
◇
それから三十分後。
玄関に現れた雛は、白のシフォンブラウスにデニムのミニスカートという、これまた眩しすぎる出で立ちだった。歩くたびに、かすかに揺れるイヤリングが彼女の美貌を引き立てている。
「お待たせ、遥香ちゃん! 行こう!」
「お、おう……」
一方の遥香はというと、手持ちの中で「辛うじて一番マシ」だと思われた、黒の無地のTシャツにカーゴパンツという、お洒落さのかけらもない極めて無難な格好だった。雛の隣に立つと、やはり「アイドルのマネージャー(地味)」感が否めない。
「うーん、やっぱり今日の目標は、遥香ちゃんを『女の子』にすることだね!」
雛は遥香の格好を見て、いたずらっぽく笑いながら人差し指を立てた。
「うぐっ……お手柔らかに頼みます、中村プロ」
「ふふ、任せて! 遥香ちゃんを誰もが見違えるくらいプロデュースしちゃうんだから」
雛はそう言うと、自然な動作で遥香の腕に自分の腕を絡めてきた。いわゆる、腕組みというやつだ。
「ひ、雛!? ちょっと、距離近くないか!?」
腕に触れる、雛の柔らかい感触。そこから伝わる体温と、歩くたびにふわっと漂うあの「いい匂い」が、遥香の理性を全力で揺さぶりにくる。
「え? だって、お買い物に行くんだもん、これくらい普通だよ? それとも、嫌だった?」
雛が少し上目遣いで、寂しそうな表情を作る。その破壊力は、戦車の大砲をも容易く貫くレベルだった。
「い、嫌なわけないだろ! むしろ光栄です!」
「よかった! じゃあ、出発進行!」
雛に腕を引かれながら、遥香は我が家の玄関を出た。
秋の気配を含んだ爽やかな風が、二人の頬を通り抜けていく。心臓の音がうるさいくらいに高鳴っているのは、これから行く慣れない場所への緊張のせいか、それとも、隣で嬉しそうに微笑む美少女のせいか。
確かなことは、遥香のボロボロだった日常が、この日を境に少しずつ、しかし決定的に変わり始めようとしているということだけだった。
遥香は心の中で、自分の古いスウェットたちに別れを告げながら、しっかりと雛の歩調に合わせて歩き出したのだった。




