日常の崩壊と、新世界の匂い
長いようで短かった夏休みが、とうとう終わりを迎えてしまった。
高校一年生の九月上旬。新学期というものは、ただでさえ重い足取りをさらに倍化させる憂鬱なイベントである。しかし、今年の私――佐藤遥香にとってのそれは、例年の「あー、学校だるい、一生ジャージで寝てたい」という怠惰な愚痴だけで片付けられるものではなかった。
我が家の玄関を開けた瞬間、私の鼻腔をくすぐる芳醇な、そしてあまりにも上品なフレグランス。
「あ、遥香ちゃん。おはよ。今日からまた学校だね」
階段からトントンと軽い足取りで下りてきたのは、中村雛だった。
私の父親が再婚したことによって、突然我が家にやってきた同い年の義理の妹。そして、私の平穏な「男二人暮らしのようなズボラ生活」を根底からひっくり返した張本人である。
何度見ても、その美貌には心臓が変な跳ね方をする。お菊人形のような吸い込まれそうな黒髪と和風の端正さ、そこにフランス人形を思わせる透明感のある白い肌とクッキリとした目鼻立ちが融合している。おまけに、どこか現代のK―POPアイドルのような洗練されたオーラまで纏っているのだ。神様はどれだけ彼女の造形にバグレベルの修正を施したのだろう。
「……お、おう。おはよ、雛」
私は、首元がよれよれた高校の制服の襟を直しながら、辛うじてそれだけの声を絞り出した。
普段の私は、家の中ではヨレヨレのスウェットかジャージしか着ない。お菓子とジュースさえあれば二次元と三次元の美少女を眺めて一生を終えられる自信がある、男子臭いというか、もはや中身は「中年のおっさん」である。そんな私の前に、こんな「触れてはいけない大切なもの」の具現化のような美少女が日常的に存在していること自体が奇跡であり、同時に過酷な試練だった。
「雛、ネクタイ曲がってない? あと、忘れ物はないか? ハンカチ持った?」
「ふふ、大丈夫だよ、遥香ちゃん。お母さんみたい」
雛が鈴を転がすような声で笑う。その笑顔の破壊力に、私の脳内ブレインは一瞬でショートした。だが、すぐに頭を振って正気を取り戻す。
今日から、雛は私と同じ高校に転校してくるのだ。
こんな超絶美少女が、あのお世辞にもレベルが高いとは言えない普通の高校に放り込まれたらどうなるか。狼の群れの中に飛び込む純白の子羊のようなものである。
(……守らねばならん。この佐藤遥香、二次元と三次元の美少女を愛する者として、そして一応の『姉』として、雛を害するすべての邪悪から彼女をガードしてみせる!)
胸の中で固く誓いを立て、私は雛の後に続いて玄関の扉を開けた。
◇
予感は、学校の校門をくぐった瞬間に確信へと変わった。
「おい……見ろよ、あれ……」
「新入生? いや、時期的に転校生か?」
「嘘だろ、めちゃくちゃ可愛くないか? 芸能人?」
すれ違う男子生徒たちの首が、まるでひまわりが太陽を追うかのように一斉に雛の方へと回転していく。女子生徒たちからも「え、何あの子、肌白すぎ」「ハーフかな?」といった囁き声が漏れていた。
当の雛はというと、そんな周囲の喧騒などどこ吹く風で、「へえ、緑が多い学校なんだね」と小さく微笑んでいる。無自覚。これぞ最大の兵器。
案の定、始業式で雛が教壇に立ち、「中村雛です。よろしくお願いします」と一礼した瞬間、体育館の空気が物理的に揺れた。どよめきというよりは、あまりの衝撃に全員が息を呑み、その後に津波のような私語が広がっていく感覚だ。
そして、雛が私の所属するクラス――一年B組に配属されることが発表された時、クラスの男子どもは声にならない歓声を上げ、ハイタッチを交わしていた。
「おいおい、落ち着けよ愚民ども」
私は自席の窓際最後尾から、そんなクラスメイトたちを冷ややかな目で睨みつけた。
しかし、本当の戦いは放課後に始まった。
担任が教室を出て行った瞬間、雛のデスクの周りには、まるでバーゲンセールのワゴンに群がる主婦のごとく、もの凄い数の生徒が押し寄せた。
「中村さんってどこから来たの!?」
「連絡先交換しようよ!」
「部活どこ入るか決めてる? うちの野球部のマネージャーになってよ!」
怒涛の質問攻め。雛は困ったように眉を下げ、「ええと、その……」と言葉を詰まらせている。
その瞬間、私の体内で何かが弾けた。
「そこまでだァーーーッ!!」
ガタァッ! と激しく椅子を鳴らして立ち上がり、私は雛のデスクの前に立ちはだかった。その姿は、お気に入りのアイドルをパパラッチや厄介オタクから守るベテランマネージャー、あるいはSPそのものであった。
「ちょっとみんな、雛が困ってるでしょ! 質問は一通につき一個! じゃなくて、一人ずつ! 連絡先の交換は、まず私という厳正なフィルターを通してからにしてもらうからね!」
「なんだよ佐藤、お前中村さんと知り合いなのかよ?」
男子生徒の一人が不満そうに声を上げる。
「知り合いも何も、私の……その、大人の事情で今は身内みたいなもんなの! とにかく、今日のところは解散! 雛は疲れてるの! ほら、散った散った!」
ジャージを愛し、普段はクラスの隅で死んだ魚の目をしている私が、見たこともない気迫で怒鳴り散らしたものだから、周囲の生徒たちは気圧されたように一歩引いた。
「行こう、雛」
「あ……うん、ありがとう、遥香ちゃん」
私は雛の手首を掴むと、まだざわめきが残る教室から、逃げるように連れ出したのだった。
◇
それからの数日間、私は文字通り「雛の専属マネージャー」として付きっきりで彼女をガードした。
休み時間になれば、他クラスや先輩たちが雛を一目見ようと廊下に集まってくる。私は教室の前後ドアの前に立ち、鋭い眼光で不審な動きをする男子を牽制した。
「おい、そこのサッカー部。雛に爽やかな笑顔で近づこうとしても無駄だ。その下心が透けて見えているぞ」
「いや、俺はただ、教科書を借りに……」
「却下だ。雛の綺麗な教科書がお前の部活帰りの汗くさい手で汚れてたまるか。ほら、自分のクラスのやつに借りろ」
もはや完全な門番である。クラスの女子からは「遥香、ちょっと過保護すぎじゃない?」と苦笑されたが、私に言わせればこれでも甘いくらいだ。雛はあまりにも純粋で、他人の悪意や下心に疎い。私が守らなければ、一瞬で悪い虫に食い荒らされてしまうに決まっている。
おまけに、雛のスクールライフを守るモチベーションは、単なる使命感だけではなかった。
ある日の放課後。その日は珍しく部活の勧誘も落ち着き、二人で誰もいない教室に残って居残りの課題をこなしていた。
「ふぅ……やっと終わったぁ」
雛が大きく伸びをする。その拍子に、制服のブラウスがかすかに引っ張られ、彼女の細い腰のラインが露わになった。
「あ、遥香ちゃん、ここ教えてほしいな」
雛が私の席の隣に椅子を引いて座る。その距離、わずか十センチ。
「え? あ、うん。どこ?」
雛が覗き込んできたノートから、彼女の髪の毛がふわりと私の肩に触れた。
その瞬間、私の鼻腔に、あの我が家を包み込んでいる「いい匂い」がダイレクトに飛び込んできた。シャンプーの甘い香りと、雛自身の持つ体臭が混ざり合ったような、表現しがたい極上のアロマ。
(……っ!?)
頭の芯がジーンと痺れるような感覚。私は必死に平静を装いながら、心臓の鼓動が雛に聞こえてしまわないか戦々恐々としていた。
雛が熱心に私の説明を聞いている隙に、私は視線を泳がせながら、ほんの少しだけ、本当にほんの少しだけ、息を深く吸い込んだ。
(クンクン……あ、アカン、これは天国の匂いや……)
脳内のおっさんが大歓喜で踊り狂っている。偶然を装って触れた雛の肩の柔らかさ、指先の白さ、すべてが完璧すぎて、私のオタク全開の精神は密かに爆発を繰り返していた。
もちろん、こんな犬のようにクンクンしている姿や、妹に対して不純(?)な興奮を覚えていることなど、天地がひっくり返っても誰にも言えない。もし知られたら、私は「お姉ちゃん」の座を剥奪され、変質者として佐藤家を追放されるだろう。
「どうしたの、遥香ちゃん? 顔、真っ赤だよ?」
雛が心配そうに、私の顔を覗き込んできた。その潤んだ瞳が至近距離で私を捉える。
「な、なんでもない! ちょっと教室が暑いだけだから! ほら、次の問題行くぞ!」
「あ、うん……?」
私は慌ててノートに目を落とし、バクバクと暴れる心臓を必死に宥めるのだった。
◇
学校を出る頃には、空は綺麗な茜色に染まっていた。
二人きりでの帰り道。学校でのあの喧騒が嘘のように、静かな時間が流れている。
「今日も一日、お疲れ様。雛、学校は慣れた?」
私は、斜め後ろを歩く雛に声をかけた。
「うん。遥香ちゃんのおかげで、すっごく楽しいよ」
雛は嬉しそうに微笑みながら、私の隣に歩調を合わせた。
「本当に? 私、ちょっとうるさくしすぎちゃったかなって、後から少し反省したんだけど……。みんなと話したいのに、私が邪魔しちゃったかな、とか」
実は、少しだけ気にしていたのだ。いくらガードのためとはいえ、私がしゃしゃり出すぎたせいで、雛がクラスメイトと友達になる機会を奪ってしまっているのではないか、と。
すると、雛は小さく首を振った。
「そんなことないよ。私、前の学校でも、急にたくさんの人に囲まれることが多くて……。実は、どうしていいか分からなくて、いつも怖かったの。でも、今日から遥香ちゃんがずっと前に立って守ってくれたから、すごく安心した」
雛はそう言うと、私の制服の袖をきゅっと掴んだ。
「だから……これからも、私のマネージャーさんでいてくれる?」
夕日に照らされた雛の瞳が、まっすぐに私を見つめている。その表情は、どこか甘えるような、心からの信頼を寄せてくれている子供のようでもあった。
(……あぁ、もう、本当に可愛いな、ちくしょう!)
胸の奥から、言葉にならない愛おしさが込み上げてくる。この瞬間、私の心の中にあった邪念(クンクンしたいとか、そういうおっさん思考)は綺麗に吹き飛び、ただ純粋に「この子をずっと守っていきたい」という姉としてのプライドが満たされた。
「あったり前でしょ。誰が来ても、私が全部追い払ってあげる。雛の専属SP兼マネージャーは、世界中で私だけの特権だからね」
私が胸を張って言うと、雛はパッと顔を輝かせ、「うん!」と満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ、ご褒美に、今日の晩ご飯は私が遥香ちゃんの好きなもの作ってあげるね。お母さんに作り方教わったの」
「本当!? じゃあ、ハンバーグがいい! 肉汁たっぷりのやつ!」
「ふふ、いいよ。じゃあスーパーに寄って帰ろう」
二人の影が、夕暮れの道に長く伸びていく。
佐藤家にやってきた新しい風は、私のズボラな日常をめちゃくちゃにしたけれど、それ以上に、私の世界を驚くほど鮮やかで、いい匂いのする場所に変えてくれた。
これから始まる高校生活、何が起きても、この私の愛する「天使」だけは絶対に守り抜いてみせる。
そんな決意を新たにしながら、私は雛と並んで、美味しい匂いの待つ我が家へと歩みを進めたのだった。




