あるお爺さんのおはなし
“ふた二つ亭”。
宴が終わり、静けさに包まれた夜。
「いやあ儲かった儲かった!」
店じまいを終えて老店主は腰を下ろした。
ニコニコ顔で肩をぽんぽんと叩くと、老人は大きく息を吐いた。
「あやつがいってくれて儲かったわい」
「ヤーレの事ですか?」
不意に声がした。
この部屋には老店主しかいないはずだ。思いがけない声に思わず動きが止まる。
「……」
店主がゆっくりと声の方を向くと、青年が読書をしながら立っていた。
「おわ⁉ なんじゃなんじゃ⁉」
余りに慌てたせいで老店主は椅子から転げ落ちそうになる。
「だ、誰じゃあんた……あん?」
勝手に読書を続ける青い青年に、老店主は見覚えがあった。
「あんたは確か、ウェッタさんと一緒にいた……ヨグランさん?」
「おや。僕の名前を憶えていましたか」
「そりゃ客商売ですからな。しかし何です、こんな夜に突然? どこから入って来たんです?」
「申し訳ない。急な用が出来たんです」
「急な用?」
ヨグランは老店主を見もせず、開いていた本を棚に戻して新たな本を抜き取った。
老店主は青年の奇行に顔をしかめる。
「《殺し切らぬ》ヤーレ、ご存じですね?」
「ウェッタさんを狙った奴でしょう? まさかうちの客にあんな奴が紛れとるとは思いませんでしたわ」
「彼の光痕の事が気になりまして」
老店主は怪訝な顔をした。深夜勝手に他人の部屋へ入り込んでまで話す事だろうか。
「ヤーレ・クィズ・マハバイニは殺人犯で情報屋です。殺人のために魔術を用いれば光痕が発動して、情報屋の仕事に支障が出ます」
その老店主の様子を、青年はまるで意に介さない。
「なのに、光痕で困った様子がないんです。変だと思いませんか、ディピテさん」
「……いや、わしの名前はダカンですぞ」
「そうなのですか」
青年はぱらぱらと本をめくり、また棚へ戻す。老店主の方を見ない。見ないまま語り続ける。
「ヤーレは殺人を犯すたび、光痕を鎮めていたはずです。しかし誰が鎮めるのでしょう? 犯罪者である彼の光痕を鎮めれば、その人物も犯罪者になってしまいます。そんなリスクを冒すでしょうか」
やっと老店主の方を向いて、ヨグランは尋ねた。
「どう思いますか、ディピテさん?」
「だからわしはダカンです!」
青年は再び本棚へ顔を向け、新たな本を取り出す。老店主のいらだちを感じ取れていないかのようだ。
「そこで気づきました。鎮痕処置を行う者が、初めから犯罪者だったらと。この考え、どうでしょうか、ディピテさん?」
「だからわしは……ああ、もう! 鎮痕ができる犯罪者? 居るわけないでしょう、そんなの!」
「居るんです」
「はあ?」
「居るんです。鎮痕処置を行える犯罪者が。しかもなんと、二重光痕を持つほどの男が」
ぱらぱらと本をめくりながら、青年は語り続ける。
「あふれる才能を持ちながら闇に落ちてしまった者。仲間が犯した犯罪へ、さぐられたくない過去へ、あらわになった魔法光痕へ、思いのままに蓋をしてしまえる男」
ヨグランは、瞳だけを静かに老店主へ向けた。
「《二重蓋》ディピテ・クヴェルクル。二重光痕者にして最重要犯罪者。報奨金付きの指名手配犯。その生死を問われる事はなし」
今度は反論も苦言も生まれなかった。
老人は、取り繕うのを止めたのだ。
「やはり、あなただったんですね。こんな所に居るとは思いませんでした」
ヨグランは本を閉じて本棚へ仕舞うと、ようやく老店主へ正対した。
「静かじゃのう」
老人は窓の外をちらと見た。
宴が終わり、誰もが寝静まった夜。虫の声が部屋へ伝わり、ときおり風が枝を揺らす音が響く。
「他に人の気配もない。ここに来たのは貴様一人か?」
「ええ、ぼくは独りです」
「他にわしの正体を知る者は?」
「いません。気づいたのはぼくだけです」
「そうか」
老店主はしばらく目を閉じたあと、ゆっくりと開いた。
「つまり貴様は独りぼっち。貴様を消せばどうにでもなる。そういう事じゃな?」
老店主の魔力が四方八方へ放たれ、部屋一面に広がっていく。魔力は壁にまとわりつき、天井をうずめ、巨大な直方体を形成しはじめる。
やがて、部屋は淡い緑色に光る魔法の結界によって完全に包み込まれた。
途端に虫の声が止んだ。風の音も聞こえなくなった。
「大声を上げても無駄じゃぞ。いまわしがフタをした。《領域遮音》は全ての音を逃がさんのだ。貴様の悲鳴すらもな」
老人の二重光痕が輝いている。エメラルドグリーンの光が猛々しく煌めく。その光の激しさはウェッタに勝るとも劣らない。
「迂闊じゃの。せめてあの女を連れておればまだ勝機もあったろうに。ま、そんな輩はよくいる。わしは様々な人間を見てきた。信じられん事をする奴がいた」
ヨグランは柔和な微笑みを浮かべたままだ。二重光痕者を前にしても揺るがない。彼は、いつもの日々となにも変わらない。
「笑みを崩さんか。やせ我慢など要らぬぞ?」
変わりのないヨグランを、老店主は鼻で笑った。老店主にとって青年はただの愚か者だ。勇者ではない。
「泣いてもよい。叫んでもよい。秘密をさらけ出してもよい。思いのまま恥をさらすがよい。心配いらん。——そのすべてに、わしがフタをしてやろう」
結界がくだけて散った。
「……?」
くだけて散った。
魔法の結界は、もうそこにない。
すっかり雲散霧消してしまった。
老店主は状況を理解できない。
これからだった。無音の世界で青年を亡き者にして、再び安穏な生活へ潜み続けるはずだったのだ。
それなのになぜ、老人の魔法は分解されて果てたのか。
そして答えより先に“それ”が始まった。
魔力が逃げ出し始めたのだ。
まず右手から、続いて左手から。胴体から、両足から。身体中あまねくすべての場所から、魔力は何のためらいもなく逃げていく。
「止まらん……魔力が止まらん……何がいったい」
偉大な老魔術師の意思を魔力は聞き入れようとしない。それどころか、魔力だけでなく手足の力まで抜け始めてしまう。それをどうにも出来ない。
ついに老人は膝から崩れ落ち、うずくまってしまった。
「魔術? 法術? これが? 知らん、こんなもの知らん。このような魔法、いままで見た事も聞いた事も」
——なかったか?
「……っ」
本当に、見た事も聞いた事もなかったのか?
すべての魔力を霧散させ、行使中の魔法を破壊し、体内の生気までも奪い去って消失させてしまう秘術。若木も老木もただちに枯死させる命の天敵。
仲間からも恐れられた、あの異常者の魔術。
「《魔力排出》……っ!」
それが、この忌まわしい魔術の呼び名だ。
「月が綺麗ですね」
窓越しに輝く満月を見て青年は言った。
月は、白銀の少女が枯れ落ちたあの夜となにも変わらない。
青年も、あの夜となにも変わらない。
もがきながら枯死していく老人をみてもただ微笑んだままだ。
きっと彼はくるっている。
「馬鹿な……そんな、馬鹿な」
ようやく老人は気づいた。自分の前に恐るべき男が立っていることを。
「まさか、貴様、まさ、か……」
「ええ」
青年はどこまでも優しい眼をしていた。
「ぼくは《殺人鬼》です。お久しぶりですね」
それは、かつて仲間が彼に与えた二つ名。
愉しむことはなく。
哀しむこともなく。
穏やかに仲間すら殺してみせた異常者の名。
「申し訳ないですが、あなたには犠牲になってもらいます」
はたして老人はなにを思っただろうか。
それを知る者はいない。彼はもう、何も語らない。




