第一章:ちょっぴりでも
カツ、カツ、という足音と共に、青年が角から姿を現す。辺りを浄化するような雰囲気を身にまといながら。
「ムワスラ管区の助任神官ヨグラン・ハルツです。初めまして」
「その聖印……秩序の使徒……」
「はい」
ヨグランはゆっくりと歩を進めて、ウェッタのそばに立った。
「大変な男に声をかけたものですね」
「そんな大層なやつなのかよ、あいつ?」
「なかなかに」
ヨグランはマハバイニをちらと見た。
「ヤーレ・クィズ・マハバイニ。またの名を《殺し切らぬ》ヤーレ。致命傷を与えながらとどめを刺す事はなく、苦しみぬいて死ぬ様を愉しむ男だとか。快楽殺人に自らを“最適化した”とまで言われる人物ですね。そして——」
その知識を披露したあと、ヨグランはウェッタにとって重要な情報を付け加える。
「——まぎれもない賞金首です。その生死を問われることはありません」
ほんのわずかな時間だけ、マハバイニは殺意の視線をヨグランに向けた。しかしすぐに表情を改め、柔和な笑みで感情を覆い隠す。
「これはこれは。随分と涼やかな風体の御仁ですね。綺麗ごとが服を着て歩いているじゃありませんか」
「『理性が——』」
「……は?」
いぶかしむマハバイニを見ながら、ヨグランは続ける。
「『理性が感情をどうにか出来るだなんておこがましい』——さきほど、そうおっしゃいましたね?」
「盗み聞きですか」
「殊更、盗み聞きしようと思ったわけではないのですが」
ヨグランの態度は変わらない。ねじ曲がった快楽殺人者を相手にしても。
「おこがましいかもしれません。理性で感情をどうにか出来るだなんて、おこがましい考えかもしれません。素晴らしい世界、それはきっと高望みなのでしょう。けれど」
ヨグランはどこまでも真面目に話しかける。
「すべてがどうにか出来なくても、ほんの少しでも、ちょっとしたことでも、どこか良くなれば」
そこに言い負かそうという意思は見られない。
「ちょっぴりでも良くなった世界。すてきだと思いませんか?」
そこに勝ち負けを決めようとする意思も見られない。
「それすらあなたには、身に過ぎた望みに映るでしょうか? 百年前よりは良くなりました。ちょっぴりは」
ヨグランは相手の感想を知りたいのだ。
「それはもはや狂信ですよ」
「そうかもしれません」
吐き捨てるマハバイニの言葉に対し、ヨグランはどこまでも素直で真面目な答えを返した。
「やめとけよ」
ウェッタがヨグランの肩を優しく叩いた。
「こいつは壊れてる。直りもしない。あたしらに出来ることはとことん壊して、動きを止めてやる事だけさ」
そう言うと、ウェッタはヨグランの瞳を真っすぐに見つめた。
「なあヨグラン。あたしを見届けてくれるか?」
「もちろんです」
快い返事を聞いてウェッタが笑顔になる。
“後のこと”はもう気にしなくていい。ヨグランに任せればいい。
「あーなんだっけ、《殺し切らぬ》ヤーレだっけか?」
がりがりと頭を掻きながらそう言うと、彼女は冷えた視線をマハバイニに向けた。
「喜べ。あたしがおまえを殺し切ってやる」
ウェッタの魔力が足元を包み、煌びやかな魔法陣を出現させる。計十基の射出孔を備えるそれは、最新魔術の結晶だ。
その射出孔のうちの二基からただちに“光弾”が垂直発射され、急転換してマハバイニを襲う。
「くっ⁉」
すんでのところでマハバイニが消えた。《遅延転移》が間に合ったのだ。
「おー良い反応だな? “鏡像”には当たると思ったぜ?」
ウェッタは転移先のマハバイニの元へ全力で駆け寄ると、小剣で彼に斬りつけた。二度、三度と繰り出す斬撃をマハバイニは短剣で受け止める。
「斬り合いしてる時にゃ逃げられないよな、おまえ?」
ウェッタがにやりと笑う。
《遅延転移》は攻め続ける限りにおいて、他の転移魔法と変わりはない。むしろ優秀だ。しかし逃走には使えない。欠陥品でしかない。
「しかし……斬り合いは貴女も不得手でしょう?」
「なんだ? おまえには灰色しか見えないのか?」
ウェッタの背後が光輝く。それは、ウェッタの魔法陣の光。
マハバイニの元へウェッタが駆け寄ったがために置いて行かれた十基の射出孔が、一斉に“光弾”を射ち出した光だ。
光弾の群れは何の容赦もなくウェッタとマハバイニへ襲い掛かると、軌道を小刻みに変えてマハバイニだけを正確に撃ち抜いた。ウェッタには傷一つない。
「ばかな……自分ごと……」
驚愕の表情を浮かべて、マハバイニが吹き飛ばされる。
「おまえなに言ってんだ? あたしとおまえ、二人だぞ? 自分に誤射なんてするわけねーだろ」
息をするのを止めたマハバイニに、セルウェッテ・ザルナラッフは笑いかけた。
「あたしは十人までなら同時に相手できるんだぜ。二人? 少なすぎるさ」
《戦乙女》にとって、それは余りにも当然の事だった。




