第一章:深すぎる溝
「——なるほど、おまえがヤーレか」
ウェッタはマハバイニへ納得顔を見せ、軽く笑った。
「あんな手紙まで出して仇討ちたあ、律儀なこった」
「いいえ? どうでもいいですよ、ジェスタなど」
マハバイニは心底つまらなさそうに答えると、口元を緩めた。
「僕はセルウェッテ・ザルナラッフという女性に興味が湧いただけです。貴女のような強い女性は、いったいどんな美しい音を奏でるだろうかと」
「キモチワリー」
ウェッタは左右を見回したあと、少し不機嫌になった。
町の人びとは二人を眺めている。しかし何もしない。観客としてそこにいる。口を出す事も手を出す事もない。
「気づいたようですね。ここがどこか。どんな町か」
マハバイニは嘲笑に似た微笑を浮かべた。
「ここは《清濁合わさる町》。真っ白でも真っ黒でもない所。半端ものしかいない町です。貴女のような眩しい人間に近づく者はいません。僕のようにどす黒い人間に近づく者もいません」
またも喋りながらマハバイニは転移する。その奇襲をウェッタは防ぎきれない。
「正しいのは貴女です。貴女はただ僕に殺されようとしているだけ。でも誰もそれを証明しません。貴女を見届けたい者も、見届け人が務まる者も、この町にはいませんから。つまり」
ぶらぶらと自らの短剣を揺らしながら、マハバイニは言った。
「貴女は魔術が使えないのですよ、僕と違って。使えば貴女も、犯罪者です」
痛む身体を抑えながら、ウェッタはため息を吐いた。
「とっとと殺せよ、殺すなら。まどろこしい」
「これはおかしな事を。愉しいんですか、それは?」
「あ?」
いぶかしむウェッタを、マハバイニも不思議そうに見つめる。
「ただただ人を殺す? 愉しみもせずに? 他人様の命を頂くんですよ? 軽々しくやっていい事ではないでしょう! 殺すだけ、なんて僕には理解できません」
突然、何かに納得したようにマハバイニが顔を輝かせた。
「なるほど! 貴女は虫をいたぶった事がないんですね。では他人をからかった事は? 弱い所を突かれ困り果てる人間を、更につついて笑った事はありませんか? 相手の嫌がるさまを愉しんだ事が、貴女には一度もないのですか?」
マハバイニは尋ね続ける。自分が正しいと信じて。
「僕のこれは、その延長線上にあるんですよ。僕は他人が嫌がる顔を見たいのです。困り果てる仕草を見たいのです。苦しむさまを、のたうつさまを観察したいのです。それが愉しくて愉しくて、僕は、たまらない!」
ウェッタは目を見張った。埋めきれない溝が自分と相手の間に横たわっている。
表面的な違いではない。根源的な違い。大元の部分から相手はウェッタと違っていた。
「思うんですよ。結局人間は、行儀よく生きられるように出来ちゃいないんじゃないか、とね」
マハバイニは自分がウェッタと違うものだと思っていない。同じものだと信じている。
「無理に秩序を保とうとしたって、ただ辛いだけです。いったい、この堅苦しさが役に立ったことなんてあるんですか?」
黒服の男はそう言うと、辺りをゆっくりと見回した。
灰色の町は彼に何も答えない。静かに見守り続けている。その様子を見てマハバイニは笑った。
「見てください、この表と裏の狭間を。治安は悪い。人々は貧しい。理不尽がまかり通る。綺麗事を言うわりに神々は不公平。そして結局はみな悪口を言い、他人をねたみ、不幸を笑う。理性とやらはどこに居るんです?」
マハバイニの顔から少しずつ笑みが消えていく。きっと、彼自身もその事に気づいていない。
「僕の子供のころから、世界がどう変わったというんですか? 百年前から、二百年前から、なにか変わり映えなどしたんですか?」
その表情の奥にあるのは、積み重ねた怒りだ。
「理性が感情をどうにか出来るだなんておこがましいですよ。人間の思い上がり、無駄な努力です。だから僕は、どうにかする事をやめました」
その静かな怒りが、自分勝手な開き直りを正当化させている。
「いま僕は僕らしく、ありのままに、ごく自然に生きている。それでいいじゃありませんか。みんなそうすればいい。きっとそれで、世界は滑らかに回りますよ」
マハバイニは無造作にウェッタの真正面へ立つと、急に真剣なまなざしを彼女へ向けた。
「貴女だってこの世が息苦しいと感じるからこそ、生まれに相応しくない言動や振る舞いを好むのでしょう?」
色彩の乏しいマハバイニの中でただ一つ、色鮮やかな琥珀色の瞳がウェッタを射貫くように見つめる。
ウェッタは、しばらくその強い視線を受け止めていたが、やがて軽く息を吐いた。
「まあ? たしかに? 堅苦しいのは好きじゃない。けどな、大キライってわけでもねーんだよ」
一つの色が、ウェッタの目の中で存在感を増す。
「おまえのいう世界ってさ? ダイスキなやつがいきなり殺されたりするんだろ?」
その色は、ウェッタらしさの象徴。
「ヤだね、そんな世界。まっぴらだ」
そして、ウェッタの強い感情の色。
「おまえ他人をスキになった事ねーだろ? 引きこもってろボケが」
爆発的な魔力の奔流がマハバイニを弾き飛ばした。ウェッタの二重光痕から赤い光が噴き上がる。燃え盛る炎のような光痕の輝きが、彼女の怒りを表していた。
「ふ。出しますか」
「怒らせたかったんだろ? 喜べよ。あたしはいま本気で怒ってるぜ。後のこと? 知るか!」
魔法合戦になればマハバイニに勝ち目はない。二重光痕者であるウェッタの魔力は圧倒的だ。つい先日、ジェスタ・オイヤーがその身をもって証明したばかりだ。
にも関わらずマハバイニは怯えない。むしろ愉しんですらいた。
「貴女はいま秩序を破った!」
マハバイニが高笑いした。彼は本心から喜んでいる。
「正しい! 貴女は全く正しい! 正当に魔法を使用している! しかし誰もそのことを証明しない! 貴女の潔白は闇に消えてしまう!」
「そんなご高説をのたまいたかったのか?」
マハバイニの表情が変わった。穏やかな微笑で彼はウェッタを見る。
「いいえ。表の世界で無理に足掻く、哀れな女性を嘲笑いたかっただけです」
この段階においてなお、灰色の町は何もしない。観客は増えている。しかし観ているだけだ。
マハバイニは辺りを見渡して、変わらない町に満足げな笑みを浮かべた。
「どうです? これが世界の現実ですよ。たった一人、ほんの一人、ただ一人すら証人になろうとしません」
「おや? 証人がご入用ですか?」
不意に声が届いた。
どこまでも穏やかで、針の山を綿毛の海に変えてしまうような音色。空気を読まないか、読めない生真面目な男の声。
「ここにちょうど、手すきの人間が一人おります」
「……?」
「あんただったのか!」
マハバイニとウェッタ、二人の反応は好対照だった。




