46.お嬢様は逃走中
十三歳になった、その年のことだった。
カリタス院の件以降、王都では時折不穏な話が流れてきた。しかし何か事件が起きても、その先へ辿り着くことはなかった。証拠が掴めない。掴めないまま、時だけが過ぎていく。ヴィクトルは静かに目を光らせ続けていた。
そんな折、セドリックがヴィクトルに進言した。
「もしも公爵様がお許しになるならば……建物内での逃走訓練をーー」
「面白そうじゃないか!!」
即決だった。
なお、ヴィクトルの参加については、アランが即座に却下した。公務が多忙なためである。要望を通してもらえなかった軍務卿は、たいそう不満そうな顔だったという。
かくして、別館を使った屋敷内逃走訓練が始まった。
ルールは単純だった。使用人たちが鬼役となり、コーデリアを捕まえたら金一封。第一回の参加者は、アランと侍女長が厳選した精鋭たちだった。
結果。
コーデリアは、意外なほどあっさりと逃げ切った。
「それでは面白くないね」
ヴィクトルは、にこにこしながら言った。
「次は、縛った状態から始めなさい」
次回の逃走訓練を前に、アランはコーデリアを呼んだ。
関節外しを含む縄抜けの手順を、淡々と教えた。
関節外しまで教える執事。もっとも、この公爵家においては、公然の秘密であった。
*****
さて、本日はその2回目である。
今回はコーデリアだけでなく、リュカもこの訓練に参加した。
それは、先日の朝食の席でコーデリアが進言したためである。
「そういえば、リュカも次回から参加しませんこと?」
「な、姉上、何をーーっ」
「いいねぇ、ぜひ参加しなさい」
ヴィクトルが、にこにこしながら即決した。
「ちょ——アンリ兄上……!!」
救いを求めてリュカはアンリに目で訴えたが、アンリは完全に明後日の方向に顔を背けていた。
「……リュカは、すまん」
その家族の様子を、エレノアはくすくすと笑っていた。
*****
別館の二階奥の一室。
コーデリアは縄で縛られた状態で、椅子に座っていた。
教えられた通りに、関節を静かに外す。縄はするりと解けた。
そっと扉に耳を添えると、くぐもった声が聞こえてきた。見張りの交代時間を告げる声だった。足音が遠ざかっていく。
(今ね)
コーデリアは音を立てずに扉を開け、廊下へ滑り出た。
ドレスの裾を、静かに手で押さえた。攫われた状況を想定した装いである。一応、動きやすいようにと、簡素なドレスを用いられている。
息を潜める。記憶が呼び起こされた。暗く静まり返った廊下。音を立ててはいけない。決して。奴らは音に反応する——
脳裏に浮かんだのは、薄暗い廊下を這いずり回る、あの『リッカー』の姿だった。
(そう、絶対に音を立ててはいけないのよ)
なお、使用人たちがリッカーと認識されていたことを、彼らが知ることは生涯なかった。ただ、金一封のために血走った目で獲物を追う様は、あるいはコーデリアの認識も、あながち間違いではなかったかもしれない。
廊下の角を曲がったところで、リュカと鉢合わせた。
訓練前はひょろひょろだったリュカも、この頃にはだいぶ足腰が鍛えられてきていた。訓練着姿で、既に顔が引きつっていた。
「姉上——っ」
「静かに」
一言で黙った。学習していた。
二人は音を立てずに廊下を進んだ。
その時、階段の下から足音が上がってきた。
「いたぞ——!!」
「逃げるわよ」
「分かってます——っ!!」
二人は走り出した。
「金一封は俺のものだ!!」
「お嬢様、今回ばかりは諦めてください!!」
「リュカ様もまとめて捕まえてしまえ——!!」
訓練のためにはある程度の無礼講は許可されていたからか、公爵家の使用人とは思えない怒号が、廊下に響き渡った。
コーデリアとリュカが手を繋ぎながら別館の出口を抜け出した瞬間、わあっと声が上がった。
休憩中の使用人たちが、出口の周りで固唾を飲んで見守っていたのだ。無事に抜け出した二人に、拍手と歓声が飛んだ。
後ろからは、追いかけてきた使用人たちがぜえぜえと息を切らしながら出てきた。残念そうな顔をしていたが、特別訓練への参加手当は別途支給される手はずになっていたので、彼らの懐はあたたまるだろう。
リンがタオルを渡しながら、湯浴みの準備は整えてあると伝えてくる。汗だくで埃まみれになることは、最初から織り込み済みだった。
リュカは息を整えながら、口を開いた。
「姉上は……なぜ、こんな……訓練を」
「どんな状況でも生き延びるためよ」
「……もう、何も聞きません」
リュカは、深く息を吐いた。
「でも、楽しかったでしょ」
「………」
しばらく間があった。
「……まぁ、そうですね。確かに」
コーデリアは、小さく笑った。
リュカも、つられるように口の端を上げた。
*****
翌年の春をもうじく迎えようという頃、オスカーが外遊に出ると聞いた。
「貴様とのお茶会も、今日で終わりだ」
最後のお茶会で、オスカーはそう言った。どこか得意げだった。
果たして、外遊なのか国外逃亡なのか。あの王夫妻のことだから、この申し出もきっと笑いながら受け入れたのだろう。
「かしこまりましたわ。お気をつけていってらっしゃいませ」
もう戻ってこなくていいという言葉は、かろうじて飲み込んだ。
今までで一番、清々しいお茶会になった。




