37.耐えろ
翌朝の訓練場から、悲鳴が聞こえた。
「うわっ、ちょ、待て! 待てって、コーデリア嬢!!」
二階の窓から、エレノアはその光景を眺めていた。
娘が、ガストンを木剣を持って追い回していた。鬼気迫る表情で。ガストンは半泣きになりながら逃げ回っていた。
「……ヴィクトル」
「うん?」
「あの子、本当に大丈夫かしら」
ヴィクトルは窓の外を一瞥し、穏やかに微笑んだ。
「大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないわ! 見て、あの顔! 普通の令嬢のやることじゃないわ!」
エレノアがヴィクトルにこの懸念を打ち明けたのは、これが初めてではなかった。アンリが食卓で「まるで別人のようだ」と言った頃から、ずっと胸の中にあった。あの時コーデリアは「このままでは家族に迷惑をかけてしまう」と言っていた。それは分かる。分かるのだが——それだけで納得できるものではなかった。あまりに、変わりすぎていた。
「もう、いっそお医者様に見せた方がいいんじゃないかしら。あの子がやっていることを全部やめさせて、もう一度きちんと教育し直した方がーー」
「エレノア」
ヴィクトルが、静かに口を開いた。
「今のコーデリアが、私たちの愛する娘のコーデリアだよ」
「……でも」
「大丈夫だよ」
それだけだった。
エレノアは、もう一度窓の外を見た。
コーデリアが、構えを取っていた。その目は、真剣だった。何かに追われているような、何かを追いかけているような、そういう目だった。
不安が、消えたわけではなかった。
ただ——この人が大丈夫だと言うなら。長年連れ添った夫を、信じることにした。
窓の下では、ガストンの悲鳴が続いていた。
*****
数日後、コーデリアはカリタス院を訪れた。
忘れ物をしたという理由をつけて、いつもより早い時間に。
部屋を見回した。いつも一番近くに来る、あの柔らかな髪の女の子の姿が、どこにもなかった。
「ソフィは?」
「ああ、ソフィでしたら。とても親切な方に引き取られましたよ」
職員は、にこやかに笑っていた。
「そうですか——」
コーデリアは、ただ静かに答えた。
忘れ物は、結局見つからなかった。誰も、それをおかしいとは思わなかった。
その後も、コーデリアは変わらず過ごした。いや、変わらないように見せかけていただけかもしれない。他の孤児院への訪問、王太子妃候補としての勉強、ガストンとの訓練。ただ、がむしゃらに、何かを頭から消し去ろうとするかのように、必死な様子で取り組んでいた。
カリタス院からは、その後も子供が消えていった。一人、また一人——
ある時、風の噂で、どこかの商人が商売に失敗して多大な借金を抱え、行方をくらませたという話が届いた。家族ごと、全て何もかもが消えていたという。その後も、少し羽振りは良かったが没落寸前だったある男爵家が、なぜか強盗に襲われて一家全滅してしまったという話があった。
街の人々は、物騒な話だと会話するも、日常の忙しさにそのことを忘れていく。
そして、アランから、ソフィが遠く離れた片田舎の夫婦の元に引き取られたと聞かされた時、コーデリアはただ静かに泣き崩れた。
その孤児院の院長であるラルドンは、売られた先の後の顛末など、気に留めることはなかった——
*****
「——そろそろ、潮時だな」
「ええ、そうですね」
「せっかくあそこまで整えたというのに、勿体無い。また一からやり直しだ」
「あの男はどうしますか?」
「そうだな。殺してもいいが、ここまでやってきたのはある。逃げる猶予は与えてやろう」
「分かりました。奴に伝えておきます」
*****
ラルドンは焦っていた。
コーデリアに見せていたような、あの笑顔は微塵もなかった。孤児院の書類を机いっぱいに広げ、ラルドンは脂汗を滲ませた。
(どうする)
このままでは破滅だ。伝達を受けて分かった。取引先が消えたのではない。消されたのだ。
(このままでは、私もお終いだ)
冷や汗が、ふくよかな顔をだらだらと流れ落ちていた。背中もすでにびっしょりだった。
「くそっ、こうなったら——」
ラルドンは、ある書類だけを乱暴に掴み取ると、急ぎ部屋から退出した。
その夜、カリタス院が動いた。




