36.多少の犠牲とは
バンッ。
執務室の扉が、勢いよく開いた。
ヴィクトルは書類から目を上げた。
旅装のままのコーデリアが、扉の前に立っていた。息が、わずかに乱れていた。
「お父様」
「やあ、コーデリア。おかえり」
「話があります」
「うん、どうぞ」
コーデリアはカツカツと足音を立てながらヴィクトルの執務机に歩み寄り、両手をテーブルについた。ソフィのことを話した。震えていた肩も、最後の望みを託すような、あの切実な目も、「ここの子は皆同じなんです」という言葉のことも。淡々と、しかし一言も落とさずに。
ヴィクトルは、静かに聞いていた。
「——だから、もう動きますわ」
「駄目だ」
「何故ですの! もうじき変態オヤジのところに引き取られてしまうのですわよ!」
「それでもだ」
「——っ! ならば、わたくし一人でも行きますわ!」
ヴィクトルは、静かに口を開いた。
「コーデリア」
「なんですの!」
「君は月に一度、絵本を読みに行っていたね」
「……ええ、そうですわ」
「ならば」
組んだ手の上に顎を乗せながら、ヴィクトルはじっと娘を見つめた。
「表の施設の子たちが、少しずつ入れ替わっているのに、気づいていたはずだろう。そして——その犠牲に、君も目をつむってきたはずだ」
コーデリアは、口を閉じた。
気づいていた。報告書にも書いてあった。増える子、減る子。その意味も、とっくに理解していた。
理解していた、はずだったのに……。
ソフィの顔が、脳裏をよぎった。震えていた小さな肩。自分に助けを求める以外にはもう道がないと知っていた、あの切実な目。
コーデリアは、ゆっくりと目を伏せた。
何も、言えなかった。
——沈黙が、落ちた。
それから、コーデリアは顔を上げた。
大きな金色の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
「——それでも、わたくしはもう、黙ったままではいられませんわ」
ヴィクトルは、娘の目を見た。
しばらくの間、何も言わなかった。
「——仕方ないなぁ、本当に」
ヴィクトルは大きなため息をついた。
「私がなんとかしよう」
「……え?」
「売られていく子達のことは、私がなんとかする。だから君は、今後の作戦を練りなさい」
少しだけ間があった。
「——ただし、今回限りだよ」
コーデリアは、一瞬だけ目を瞬かせた。それから、静かに頷いた。
「……お願いしますわ」
信じて、委ねた。それだけだった。
なお「今回限り」が今回限りになることは、たぶんこの先もないだろうことは、この場でアランだけが理解していた。
*****
アランとの作戦会議は、その夜のうちに始まった。
カリタス院の周辺の動き、ラルドンの行動パターン、物資の搬出経路——地図を広げ、情報を並べ、包囲網を少しずつ組み上げていく。
コーデリアの顔色は、悲壮だった。ペンだけが、止まることなく動き続けていた。
「お嬢様、本日はここまでにされては」
「もう少し」
「御意」
アランは何も言わなかった。ただ、湯気の立つ茶を、静かにコーデリアの隣に置いた。




