32.馬糞も拾うぜ!
コーデリアが十歳を迎えた春のことだった。
朝の廊下は、まだ静かだった。
外出の支度を整えたコーデリアが廊下を歩いていると、向こうから本を抱えたリュカが歩いてきた。リュカはコーデリアの姿を見て、一瞬だけ身構えた。
「今から勉強なの?」
「……姉上には関係ないでしょう」
「そうね、わたくしには関係なかったわね」
「——魔法ですよ。火魔法です」
あまりにあっさり引いたので、逆に言いたくなったらしかった。
「火魔法?」
「そうですよ、アルメリア公爵家の者なら使える火魔法です。姉上は風魔法でしたね、それもほんの僅かな、そよ風程度の」
ふふん、とリュカが得意げに胸を張った。
魔法でマウントを取れたとリュカは満足していた。しかしコーデリアは、自分も魔法を使えることを相変わらず忘れていたので、気にも留めなかった。
それよりも、重要な気づきを得たのだ。
(魔法ーー火魔法——つまり『火力』!!)
くわっと、コーデリアの目が開いた。
「そう。精進しなさい」
これ以上ないくらいの綺麗な笑顔を見せ、コーデリアはさっさと歩いて行った。
「……何なんだよ、『火力』って」
新手の魔法用語かと首を傾げながら、リュカも歩を進めた。
*****
サン・ミカエル院の講師への交渉は、あっさりと成立した。各院での読み書き算術・刺繍・素振りの指導が、月に数回ずつ始まった。費用はコーデリアが私費で負担した。善意に甘えるのは、美徳ではないからである。
清掃活動の初日、集合場所に現れた子供たちの数は、コーデリアの想定よりだいぶ少なかった。
各院から数人ずつ。中には明らかに渋々連れてこられた様子の子もいた。サン・ミカエル院に至っては、希望者のみの募集にしたところ、一人しか来なかった。院内が快適すぎて、誰も外に出たがらなかったのである。
担当のテオは、集まった子供たちを前に、努めて真剣な表情を作っていた。公爵令嬢が隣で立っている以上、やる気がないとは口が裂けても言えなかった。
コーデリアには、初日から全部見えていた。ただ、言う必要もなかった。
子供たちは口々に不満を漏らした。
「なんでゴミ拾いなんかしなきゃいけないんだよ」
「院長が行けって言うから来たけど、やだよこんなの」
「暑いし」
テオが咳払いをした。
「清掃活動の報酬として、一回につき一人銅貨五枚を支給します」
一瞬の沈黙があった。
「——すっげえ! お金もらえるってよ!!」
「俺、一番ごみ拾ってやるぜ!」
「俺が一番だよ!」
「馬糞でも拾うか!?」
「拾う拾う!!」
テオは、固まった。
(……なんだ、こいつら)
コーデリアはその様子を静かに眺めていた。
用意した小ぶりの箒とちりとり、ズダ袋が子供たちの手に渡ると、あとは早かった。先ほどまでの不満はどこへやら、我先にと走り出す。落ち葉も紙くず、食べ残しも馬糞も、子供たちは次々と袋に放り込んでいった。
荷車のゴミの山が、みるみる大きくなっていった。
テオは、その光景をしばらく無言で見ていた。
(思ったより、集まるな)
初日にしては、想定外の量だった。
2回目は、違った。
報酬が銅貨五枚と聞いた子供たちが、我先にと集まってきたのだ。特に下層民街の院からの参加者が多かった。テオは、その人数を見て思わず固まった。
回を重ねるごとに参加者は増え、街の隅に積み上げられていたゴミの山は、少しずつ小さくなっていった。
王都の街が、ゆっくりと変わり始めていた。
そうして清掃活動が軌道に乗った頃、各院を回る講師への謝礼も、子供たちの報酬からごくわずかずつ積み立てる仕組みへと、静かに切り替わっていったのである。
しかし、カリタス院からは、表の施設の子も裏の建物の子も、誰一人として参加することはなかった。




