31.尻尾を掴むまで
その日、コーデリアがサン・ミカエル院を訪れたのは、ほとんど気まぐれに近い理由からだった。
「お嬢様のお越しは珍しゅうございますね」
院長が、にこやかに出迎えた。規模の大きなサン・ミカエル院へは、月に一度、支援金を届けるだけで済ませることが多かった。院内を見て回るのは久しぶりだった。
「ええ、少し様子を見たくなりましたの」
中に通されると、子供たちの声が聞こえてきた。
訓練場のような中庭では、男の子達が木剣を手に素振りをしていた。別の部屋からは、針と糸を扱う女の子達の姿が見えた。さらに奥の部屋では、子供たちが一列に並んで、黒板に書かれた文字を声に出して読んでいた。
コーデリアは、足を止めた。
(読み書きを……教えているの)
「皆、今は勉強の時間でございまして」
院長が穏やかに説明した。
コーデリアは部屋を見渡しながら、静かに口を開いた。
「いつから、こうされているのですか」
「ここ数年でございますね。せっかく支援をいただいておりますから、子供たちの将来のためにと思いまして」
以前、影を使って帳簿を調べたことがあった。しかしあの時は不正ばかりを追っていたせいで、正しく回っている部分には目が向いていなかった。その視点は、今まで完全に抜け落ちていた。コーデリアはそれを顔に出さないまま、ゆっくりと頷いた。
他の院の子供たちは、畑仕事や洗濯など、院内の労働が中心だった。勉強などほとんどない。それは把握していた。だが、実際に見ると話は別だった。
(これを、他の院にも広げられないかしら)
*****
他の中規模院を回ると、院長達の反応は一様に明るかった。
「もちろん、畑仕事や洗濯など、手のかかることは今まで通りやってもらいたい気持ちはあります。ですが、それだけでいいとも思っておりませんでした」
「読み書きができれば、将来の選択肢が増えますから、ぜひお願いしたいです」
賛同は、驚くほどあっさりと集まった。
院長達の表情は、どこか安堵しているようにも見えた。余裕がなくてできなかっただけで、子供たちの将来を考えていなかったわけではなかったのだと、コーデリアは理解した。
下層市民街の二院も、反応は同じだった。
サント・クロワ院のセシル院長は、皺だらけの顔をくしゃっとさせて頷いた。
「まあ、読み書きを教えていただけるのですか。それは嬉しい。この子達にとって、これほどありがたいことはございませんよ」
ステラ院のドミニク院長は、しばらく言葉が出なかった。
「本当に……いいのでしょうか」
「もちろんですわ」
ドミニクは、目元を袖でそっと拭った。
*****
最後に回ったのは、カリタス院だった。時計回りに巡れば、自然とここが最後になる。さて、ここの院長はどう反応を見せるのか。コーデリアは少しだけ警戒心を抱きながら、扉をくぐった。
「これはこれは、アルメリア公爵令嬢様。本日はどのようなご用件で?」
院長のラルドンが、いつも通りの愛想のいい笑顔で出迎えた。愛想よく広げられた白く太い手には、相変わらずぶっとい毛が生えていた。やはり気持ち悪かった。
コーデリアは微笑んだまま、教育システムの話を切り出した。
ラルドンに張り付いた笑顔は、一瞬たりとも崩れなかった。
「いやぁ、それはご親切に。ですが、うちは独自の勉強を取り入れておりますから、大丈夫ですよ。どうぞ他の孤児院の子達に回してあげてください」
「どのような勉強をされているのですか?」
「何、礼儀や作法がメインですよ。やはり孤児で子供だからといって、礼儀を欠いていいわけではないですからな。はっはっは」
愛想よく笑うラルドン。
(……怪しい。かなり怪しいわ)
他の院は皆、両手を挙げて賛成したのに——コーデリアは微笑んだまま、それ以上は何も言わなかった。
「では、今日も絵本を子供たちに読んでもいいですか?いつも喜んでくれますから」
「ええ、ええ、もちろんでございますよ」
ラルドンが快く通した。
部屋に通されると、子供たちがぱっと顔を上げた。コーデリアが本を取り出すと、我先にと集まってくる。その中に、いつも一番近くに来る小さな女の子がいた。柔らかなブルネットの髪と、ガラス玉のような丸い目をした、どこか人形めいた愛らしさのある子だった。
絵本を読み終えて、コーデリアは立ち上がった。
女の子が、ぺこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「また来ますわ」
コーデリアは微笑んで、院を後にした。
*****
帰路の馬車の中で、コーデリアはしばらく口を開かなかった。
窓の外では、春の光が街並みを柔らかく照らしていた。冬の間は灰色がちだった石畳も、この季節になると不思議と明るく見える。
「……お父様は、尻尾を掴むまでは手を出してはいけないとおっしゃっていたわね」
「御意」
「……そうね」
それだけ言って、窓の外に視線を向けた。
隣から、ぐぬぬぬぬ……という空気を感じたが、アランは何も聞かなかったことにした。
*****
なぜか本日も、ヴィクトルは邸で執務をしていた。コーデリアが報告に訪れるたび、父はいつも邸にいた。軍務卿という激務の合間に、どのようにして娘の帰宅タイミングを把握しているのかは、永遠に謎のままである。
コーデリアは旅装のまま執務室へ向かい、各院の状況を淡々と報告した。教育システムの話をすると、ヴィクトルは穏やかに頷いた。
「サン・ミカエル院の講師に、他の院への協力を打診してみなさい」
「はい」
「うまくいくといいね」
「……やってみますわ」
なお、婚約者である王太子オスカーとの交流は、王妃の賞賛事件以降、著しく減少していた。二、三ヶ月に一度のお茶会、次は手紙のみ、またしばらく経ってお茶会、という緩やかなサイクルに落ち着いていた。手紙の文面は毎回妙に格調高く、明らかに本人が書いたものではなかった。コーデリア側の返信も、同様であった。
側妃への報告で登城する際も、オスカーと顔を合わせたことは一度もなかった。互いに示し合わせた様子は一切なかった。ただ、そうなっていた。
婚約者同士とは、かくも不思議な関係性であった。




