26.パパは何でもお見通し
「清掃活動ですか? 孤児達による?」
「ええ、そうですわ」
セドリックが両腕を広げて掴みかかろうとすると、コーデリアはさっとしゃがんで腕の下を通り抜けた。その後ろ姿を追いかけるように蹴りを放つと、コーデリアは大きく後ろにジャンプする。
初めての訓練の日から走り込みをずっと続けていたコーデリアは、腹筋や背筋、腕立て伏せも少しずつ組み入れ、基礎体力を上げていった。今はそこに、実際に敵から逃げ回る訓練を追加したのだ。
「下層の子供たちが——」
セドリックが掴みかかる。コーデリアはその脇をすり抜け、素早く距離を取った。
「——自分たちで、少しずつ稼げる仕組みの——」
次の瞬間、セドリックの腕がコーデリアの肩口を捉えかけた。コーデリアはとっさに膝を折り、辛うじてその手をかわす。
「——鍵にならないかと、思いまして」
息が上がってきた。なお、セドリックの攻撃は最初から全て寸止めだった。触れる寸前で必ず手が止まる。どこからともなく感じる視線の圧が、あまりにも恐ろしかったからである。セドリックはコーデリアの息が上がってきたのを見て、静かに仕掛けるのをやめた。
「少し休みましょう」
コーデリアは素直に頷いた。異論を唱えるだけの息が、残っていなかった。
訓練場の端に置かれた水差しから、セドリックが無言でカップに水を注いで差し出した。コーデリアはそれを両手で受け取り、一口飲んだ。冷たい水が、熱くなった喉をゆっくりと下りていく。
数日前から、この話が頭を離れなかった。
側妃との立ち話の中で、コーデリアは口にしていた。現物では補えないものがある、と。急な怪我、突然の病、日々の細々とした出費。そういうものに対応できる手元の金が、下層の子供たちには圧倒的に足りていない。かといって支援金を渡せば、また暴漢に目をつけられる。ではどうするか。
答えが出たのは、市場で野菜屋の女将と話した帰り道だった。
道の端に積まれたごみを眺めながら、二つの問題が頭の中で重なった瞬間があった。綺麗にしたくても手が回らない街と、お金が必要なのに稼ぐ手段がない子供たち。繋げればいい、とただそれだけを思った。支援ではなく、労働の対価として。施しではなく、自分たちで稼いだお金として。
仕組みとしては、筋が通っている。
ただ、頭の中で筋が通っているだけでは足りなかった。だから今日、訓練の合間にこの話を切り出したのだ。副団長も忙しい身である。まとまった時間をわざわざ取ってもらうより、どうせ休憩を挟むなら、その合間に聞いてしまえばいい。
セドリックは平民の出で、今も一般市民街に住んでいると聞いていた。騎士団の中でも貴族出身者が多い中、彼だけが実際にその街で暮らしている。制度として機能するかどうかより先に、住んでいる者としてどう感じるかを、まず聞いてみたかった。
「セドリック様は、一般市民街にお住まいでしたわね」
「はい。生まれも育ちも、あのあたりです」
「では、率直に聞かせてください」
コーデリアはカップを膝の上に置いた。
「住んでいる方として、街が綺麗になることは——嬉しいと思われますか?」
セドリックは少し間を置いた。
「……嬉しいですね」
答えは、静かだった。しかし迷いはなかった。
「道が綺麗だと、気持ちが違います。子供たちが遊んでいても、転んで怪我をする心配が減る。病気も出にくくなる。住んでいる者には、それだけで十分すぎるくらいの話です」
コーデリアは小さく頷いた。
「ただ」
セドリックが続ける。
「孤児院の子供たちが自分たちで稼ぐとなると、その報酬をどこから集めるかが問題になります。市民街の住民から徴収するのは、難しい」
「ええ、そこが問題ですの」
コーデリアは率直に認めた。住民から集める余裕はない。かといって公爵家が全額を出し続ける形では、制度として長続きしない。支援ではなく仕組みとして動かしたいなら、安定した資金源が必要だった。そこだけが、数日考えても答えが出なかった部分だった。
セドリックも腕を組んだまま、答えを出せずにいた。
*****
訓練を終えたコーデリアがヴィクトルの執務室を訪ねたのは、まだ午前中のことだった。
「資金源が見つからないのですわ。市民街の住民から集めるわけにもいきませんし——」
ヴィクトルはコーデリアの顔を見た瞬間から、にこにこしていた。報告が始まる前から、既ににこにこしていた。娘が執務室に顔を出すたびに自動的ににこにこする父親の顔を、コーデリアは特に気に留めなかった。
「それなら、貴族連中からお金を集めさせればいいだろう」
「王都整備の名目で、ということでしょうか。ですが、反対する者も——」
「そうそう、そういえば」
コーデリアの言葉を、ヴィクトルが穏やかに遮った。
「側妃様は午後に、少しまとまった時間が空いているそうだよ。アポイントを取ってあるから、すぐに行きなさい」
(は?)
コーデリアは一瞬、止まった。
(……訓練中の話なのに、なぜ知っているの)
疑問が頭に浮かびかけた次の瞬間、両脇からガシッと腕を掴まれた。
いつの間にか背後に控えていた侍女二人が、コーデリアを無言で退室方向へと誘導し始めた。湯浴みの準備とドレスの用意が既に整っていることは、その迷いのない動きが雄弁に語っていた。
「ちょ——」
「うんうん、頑張っておいで」
ヴィクトルは執務机の向こうで、終始にこにこしたままだった。
廊下に引き出されながら、コーデリアは静かに悟った。この父が、娘の動向を把握していないことは、おそらく一度もなかった。




