20.次こそ急所を狙います
執務室の扉が開いたのは、夕刻も過ぎた頃のことであった。
書類から目を上げたヴィクトルは、扉の前に立つ娘の顔を一瞥するなり、静かに立ち上がった。
旅装のまま、荷も解かず。休みもせず。それだけで十分だった。
「コーデリア」
娘の名を呼びながら、ヴィクトルはソファへと促した。コーデリアは珍しく、何も言わずに従った。隣に腰を下ろした父に、ちらりと視線を向けただけで、また正面を向く。
ヴィクトルはアランへ目配りをひとつした。アランは無言で頷き、温かいお茶を準備する。そっとティーカップがテーブルに置かれた頃、ヴィクトルは口を開いた。
「何があったか、話を聞かせてくれるかい」
優しく促すヴィクトルに、コーデリアは一度だけ唇を引き結び、それから口を開く。
「——サント・クロワ院でございます」
「うん」
「わたくしが支援金を届けるようになってから、ごろつきが来るようになったと、院長が」
「そうか」
「ステラ院でも、長年金品を要求されていたと——」
ヴィクトルは何も言わなかった。ただ静かに、娘の話を聞いていた。
コーデリアの目から涙がひとつ、零れた。
拭おうともせず、娘は続けた。
「暴漢の前にはーーきゃつの急所には、わたくしのこの短い手足では届きませんの」
(——ん? 急所?)
コーデリアの肩に手を添えようとしたヴィクトルの手が止まった。
「それにーーわたくし、まだ体も小さいですもの。たとえ、捨て身で頭から急所に突撃しても、きっと大したダメージは与えられませんわ」
いや、それはたぶん相当に——いや、たぶん確実に、悶絶するほどの痛みを与えるだろう。
ヴィクトルは口を引き攣らせながら、ポロポロ涙するコーデリアから視線を逸らしてアランを見た。
(アランよ)
(はい、何でしょう、旦那様)
声は出さず、口の動きだけで会話が始まった。
(今、娘が確か、『急所』と言ったような気がするのだが、私の気のせいかな?)
(いえ、確実に、はっきりと『急所』とおっしゃられております)
(だよねぇ……)
ヴィクトルはコーデリアに気づかれないよう、そっと足を組んでそこを隠した。
しかしコーデリアは止まらなかった。
悔しさが限界を超えたのだろう。コーデリアは両手で顔を覆い、わぁっと泣き崩れた。
「今のわたくしには、敵を沈黙させるための『火力』が、明らかに足りないのですーー!!」
悔しさのあまりに顔を覆ってわぁっと泣くコーデリアを他所に、ヴィクトルとアランの視線が再び絡まった。
(アランよ、今、『敵』を『沈黙』と言っていなかったかな?)
(間違いなく、はっきりと、そうおっしゃっていました)
(何だか、コーデリアが歴戦の戦士のように見えてしまったのだが、私の錯覚だろうか?)
(私の口からはなんとも……)
今まさに、コーデリアの真実に最も近づいた二人であった。
当の本人は両手で顔を覆ったまま泣き続けており、背後で繰り広げられた無言の問答には、欠片も気づいていなかった。
ヴィクトルはわざとらしくならない程度に咳払いをひとつし、娘の言葉を拾い上げる。
「……支援の方法を、見直す必要があるかもしれないね」
コーデリアはそっと顔を上げた。
「見直す、とは」
「金というのは、持っているとわかれば狙われる。ではどうすれば、狙われないと思う?」
娘は一拍、沈黙した。
その目の中で、何かが回転しているのがわかった。
「……最初から、金として渡さなければいい」
「そうだね」
「食料、衣類、おもちゃ」
言葉が、次々と出てくる。
「建物の修繕。野菜の種や肥料。金ではなく、必要なものそのものを」
「うん」
「金に換えられないものであれば、奪っても意味がない」
コーデリアは涙を袖でぬぐい、背筋をすっと伸ばした。
「現物支給、ですわ」
「よく気づいたね」
ヴィクトルは満足そうに頷いた。
「例えば、訪問する際に馬車と警護の者を連れて行き、必要なものを院長と一緒に揃えに行ってもいいだろう」
「そうですわね。確かに、わたくしよりも院長の方が、その時に必要なものを確実に把握していますもの」
「そうだ。支援というものは、一つの形だけではないんだよ」
「そうですわね……ありがとうございます、お父様」
娘の目はまだ赤かったが、その表情には明るさが戻っていた。
*****
コーデリアが退出し、執務室の扉が静かに閉まった。
ヴィクトルはしばらくその扉を見つめた後、まるで空気を変えるようにゆっくりと背伸びをした。
「——なぁ、アランよ」
「はい」
「娘の成長というものは、やはりどんな時も嬉しいものだなぁ」
「コーデリアお嬢様のご成長には、私も目を見張るものがございます」
「うんうん、そうだろう、そうだろう」
ヴィクトルは嬉しそうにニコニコ笑みを浮かべたあと、スーッとその笑みの温度だけが、消えた。
いつも明るく元気な我が娘の、泣き腫らした赤い目——
「——さて。どうやら、ゴミ掃除をしないといけないようだねぇ」
「御意」
「やり方は全てお前に任せるよ。ただし、コーデリアには気付かれないようにね」
(手を出してはいけないものに、手を出したんだ)
冷酷な表情を浮かべた主人に、アランは静かに一礼した。
執務室には、再びいつもの空気が戻っていた。ヴィクトルは夕食までの僅かな時間、残りの執務を進め始めた。
その横で、静かに佇まいながら、アランはふと数ヶ月前の朝を思い出す。面倒ごとを押し付けられたと嘆きながら、テーブルに広げた地図を一瞥し、「面倒だから時計回り」と雑な判断を下したあの日。それがまさか、まさか二つの孤児院を救うことになろうとは。
アランはそっと、口の端に笑みを浮かべた。




