18.初めての挫折
馬車に揺られながら、コーデリアは手元の手帳を静かに捲っていた。
表紙に、几帳面な文字で「孤児院慰問記録」と記されている。ちなみに、もう一冊の手帳は自室の奥深くに厳重に保管してある。あちらは、もちろん人の目に触れさせてはいけないものだからである。何の記録かは、ここでは触れないでおこう。
今日は孤児院の日だ。
慰問記録を眺めながら、コーデリアは各院の現状を頭の中で整理していた。
サン・ミカエル院は相変わらず盤石だった。ブランシュ・リリー院も、少しずつ変化が出てきている。オーロラ学舎は人員配置の問題が残るが、教育システムの導入は順調だ。
(全体的には、悪くない)
ただ、下層市民街の二院だけが引っかかっていた。
サント・クロワ院。ステラ院。
どちらも子供たちの目は輝いているし、運営者も誠実だ。それは間違いない。ただ、他の院と比べると、子供たちの頬のこけた感じが、なかなか改善していない。食事の質なのか、資金の流れなのか、原因がまだ掴めていなかった。
(もう少し様子を見るしかないかしら)
そうこうしているうちに、馬車が止まった。
本日の最初の訪問先、サント・クロワ院だ。
(焦っても仕方ないわね。行きましょう)
コーデリアは手帳を閉じた。
*****
サント・クロワ院は、下層市民街の南東に位置している。馬車が入れるような道ではないため、近くの狭い路地に馬車を止め、そこから徒歩で向かうのがいつものやり方だった。
今日は張り切ってパンを焼きすぎた。一つの籠に収まりきらなかったため、二つの籠に分けていた。大きい籠をリンが、小さい籠をコーデリアが抱えて路地を歩く。
孤児院の前に着くと、セシル院長と子供たちがいつものようにニコニコしながら出迎えてくれた。
白髪交じりの穏やかな笑顔は変わらない。コーデリアは籠を抱えながら、セシルと並んで入口へと歩き始めた。
ふと気づいた。
(……支援金、馬車に置いてきたわ)
アランと決めた支援計画をもとに、各院への支援金は定期的に届けるようにしていた。コーデリアの訪問と重なる日は、なるべく自分の手で渡すようにしている。それが今日に限って、パンの籠を抱えて颯爽と降りてしまったせいで、座席に置きっぱなしだった。
「リン、支援金の袋を取ってきてもらえる? 馬車の座席に置いてきてしまったわ」
「分かりました」
リンが踵を返し、路地の方へ向かう。その背中を見送りながら、コーデリアは院長と言葉を交わした。
その、僅か数分後のことだった。
路地の影から、三人の男が姿を現した。
鼻につく酒の臭いが、風に乗って流れてくる。
三人の中で一際体格のいい男が、ふらつくような足取りで前に出た。赤ら顔のまま院長を一瞥し、ニヤリと口元を歪める。
「やぁ、ばあさん。また来たぜ」
セシルの顔が、さっと青ざめた。
「金を出せ。今日は貴族様まで来てるじゃねえか。いい日だ」
「そ、そんな! お金は先日、お渡ししたばかりじゃないですか!!」
セシルの声が思わず飛び出した瞬間、ハッとして隣のコーデリアを見た。その顔が、先ほどとは別の意味で、さらに蒼白になった。
コーデリアは男の方を向いたまま、静かに状況を整理した。
リンはいない。セシルは老齢だ。施設の中には小さな子供たちがいる。守れるのは、今この場では自分しかいない。
——コーデリアは過去の自分を振り返った。
薄暗闇から突然ゾンビが襲ってきたことがあった。銃火器を持った敵に囲まれたことも。あれはゲームの話だが、サバゲーのフィールドで何度もやられて泥だらけになったではないか。有事の際の危機感は、そんじょそこらの貴族令嬢よりは備わっている自負がある。
だがしかし——ここは現実の世界なのだ。
震えそうになる足を、内側から叱咤した。
コーデリアはセシルと子供たちの前に静かに一歩踏み出し、暴漢たちを真正面から睨みつけた。
「この方達への手出しは無用です。あなた達に渡すような金品など、一つとしてありませんわ!!」
コーデリアが腹に力を入れて叫ぶ。男の顔が険しく歪んだ次の瞬間、大きな手がコーデリアの襟首を掴んだ。首元に鋭い衝撃。地面から足が浮き、喉元が締め付けられる。
「ああん? 何だてめぇ! 殺されたいのか!!」
至近距離からの罵声は酷く酒臭い。必死に押し殺していた震えが、限界を超えた。目尻に涙が浮かぶ。
男の腕が振り上がる。
あまりの恐怖と次に来ると予想される衝撃に、コーデリアはぎゅっと目をつむった。脳裏に、優しく見守るヴィクトルの笑顔が浮かぶ。
(助けて、お父様——!!)
「——お嬢様に、手を出してはいけません」
恐ろしいほどに静かなリンの声が聞こえた瞬間、ドンっと男の体に衝撃が走り、手の力が緩んだ。くぐもったうめき声が上がると、男の体が傾いていく。
落ちる、と思ったその時、細い腕がコーデリアの体をしっかりと受け止めた。
「お嬢様、ご無事ですか」
「……ええ」
声が、僅かに掠れた。
リンの腕の中で、しばらくの間、体が動かなかった。ふと顔を上げると、リンの背後に二人の男が静かに倒れているのが見えた。
(……いつの間に)
蒼白になったセシルが二人に近づき、深々と頭を下げながら震える声で言った。
「本当に申し訳ございません。実は先日も、同じ者達に寄付金を奪われてしまいまして……」
「……先日も、とおっしゃいましたね」
リンに抱き上げられる形になっていたコーデリアは、静かに降ろしてもらいながら、努めて穏やかな声で問いかけた。まだ足の震えは完全には収まっていなかったが、悟られぬよう、ぎゅっと手を握りしめる。
「はい。逆らえば、子供たちに何をされるか……断ることができずに、ずっと」
セシルは俯いたまま、申し訳なさそうに続けた。
「実は……以前は、こちらにはあの者たちは来なかったのです。支援金もなく、取り立てるものが何もないと思われていたのでしょう。ですが最近になって、支援金が届くようになってから……」
言葉が、そこで途切れた。これ以上は、セシルは続けることはできなかったらしい。
ただ申し訳なさそうに震え続けるセシルの姿に、コーデリアは唇を、思わず噛んだ。
(わたくしが、支援を始めたから……)
悔しさともどかしさ、そして自分の無力感が、胸の中で渦を巻いていた。




