10.不正発見は淑女の嗜み
馬車が邸の門をくぐるなり、コーデリアはリンに一言告げた。
「お父様の執務室へ」
リンは一瞬だけ目を瞬かせたが、すぐに頷いた。旅装のまま、荷も解かず、休みもせず。それだけで、今日の訪問が普通ではなかったことが伝わったのだろう。
アルメリア公爵家の執務室は、邸の中でも特に重厚な造りをしている。分厚い扉の向こうには、王国軍務卿としての執務机と、壁一面を埋め尽くす書棚。そして、その椅子に座る男。
真紅の髪に、鋭い金色の瞳。長身で、ただそこに座っているだけで空気が変わる。アルメリア公爵、ヴィクトル・ロゼ・アルメリア。しかしその厳めしい顔が、扉を開けた娘を見た瞬間、ふっと緩んだ。
「おお、コーデリア。帰っていたのか」
「ただいま戻りました、お父様。少しお時間をいただけますか」
「もちろんだよ。さあ、おいで」
ソファに腰かけた娘を見ながら、ヴィクトルは穏やかに口を開いた。
「孤児院への慰問、全て終わったと聞いたよ。大変だったろう」
「ええ。今日で全ての慰問が終わりましたわ」
(よくやった、我が娘よ……!)
内心で咽び泣きながら、ヴィクトルは努めて穏やかな顔を保った。多くの貴族令嬢が慰問といえばせいぜい一か所か二か所、それも形ばかりで終わらせる中、娘は全施設を回りきった。しかも自らクッキーを焼いて持参したと報告で聞いている。なんと健気で、なんと優秀な——
「孤児院への慰問など、多くの貴族はせいぜい一、二か所を形式的に回る程度だからね。それを全て訪ね歩いたのだ。本当によく頑張ったね。……子供たちと触れ合って、どんなことを感じたかね?」
優しく促しながら、ヴィクトルは続きを待った。
(きっと、子供たちと楽しく過ごせたことだろう。孤児院の子たちと仲良くなれたなら——)
「まず、各施設の支援金の配分と、子供たちの実態に著しい乖離がありましたわ」
(……え?)
「北のサン・ミカエル院は問題ありません。ただ、南に下るにつれて環境の落差が顕著で——下層市民街の景色も、想像より遥かに深刻でしたわ。サント・クロワ院は資金がほぼないにもかかわらず子供たちの状態が良好。むしろ問題なのは、援助金が十分なはずのカリタス院ですの」
「……ほう」
「施設の裏手に、外部から見えない建物がございました。そこに隔離されている子供たちがいて、表との扱いの差は明らか。職員の反応も不自然で、援助金の使途が子供たちの生活に反映されていない。金の流れがどこかで止まっているとしか思えませんわ。ついては、影をお借りしたいのですが」
ヴィクトルは静かにペンを置いた。
「……ちょっと待ちたまえ」
「はい」
「君は確か、クッキーを持って各所を回ったと聞いたのだが」
「ええ、そうですわ」
「……クッキーを焼いて孤児院を回った結果、資金横領の疑いを掴んで帰ってきたと、そういうことかね」
額に手を当てた。執務室に似つかわしくない、非常に疲れた顔だった。
「君はまだ、確か七歳のはずなんだが——」
「八歳になりましたわ、お父様」
「失礼した。八歳だ」
深く、長く息を吐いた。
「まだ齢の八歳の令嬢が、クッキーを焼いて孤児院を回った結果、資金横領の疑いを掴んで帰ってきたと。そういうことかね」
「証拠と断言するには調査が必要ですわ。ですから影をお借りしたいと申し上げております」
「……君は一体、何を見てきたんだね」
コーデリアは首を傾けた。
「そんなもの、淑女として普通の観察ですわ」
ヴィクトルは額に手を当てたまま、しばらく動かなかった。
カリタス院の不審については、実のところ彼もすでに把握していた。確証を掴む前に動けば尻尾を切られる。慎重に水面下で調査を続けていた案件だ。
まさかそこへ、八歳の娘がクッキーを持って乗り込んでいたとは。
しかし報告の筋は通っている。感情論ではなく、根拠と手順と目的が整っている。
「……まぁ、いいだろう」
ヴィクトルは静かに頷いた。
「君のやりたいようにやってみたまえ。アランをつけるから、必要なことは彼に言うように。ただし、目立つ動きはしてはいけないよ。あくまで、慈善訪問の体裁を崩さないように」
「もちろんですわ」
コーデリアはすっと立ち上がった。
「では、アランをお借りしますわね」
「ああ。……ところでコーデリア、以前から思っていたことなのだがーー」
「はい、何でしょう、お父様」
(……何かしら)
娘として振る舞うことには慣れた。しかし父は鋭い。もし何か気づいていたとしたら——
「そろそろ、お父様のことを『パパ』と呼んでくれてもいいんだよ」
「失礼しますわね、お父様」
ガチャリ。
扉が静かに閉まった。
ヴィクトルはしばらく、その扉を見つめていた。
(……パパは諦めないよ、コーデリア)
軍務卿の密かな誓いは、執務室の中に静かに消えた。




