(5)
よく知る体温に、手を握られる。
分厚くて大きな手。ごつごつしていて、皮膚が硬くなっているところがある。
そっとわずかに持ち上げられ、手の甲を指がすりっと撫でていった。
「ごめん、フィン」
半覚醒だったフィアナは、ぼそりと聞こえた小さな声に、はっと目を覚ます。
ランプの絞られた明かりだけの天幕の中、ゆらりと揺れたのは人影。
小さな明かりに、金色の髪が淡く光っていた。
「レオっ」
フィアナは小さな声で呼びかけるのと同時に、人影へと腕をのばす。
だが、伸ばした手は、離れていく人影を捕えることはできなかった。
「いたっ」
かわりに肩に激痛が走る。
打ち身がひどくて湿布をしていたというのに、激しく動かしてしまったからだ。
「フィン! 大丈夫か」
だが、そのおかげで、レオナルドは戻ってきた。
肩の痛みにうずくまったフィアナのそばに膝をつき、とても心配そうに様子を伺っている。
フィアナは手をのばし、今度こそ、レオナルドの腕をぎゅっと捕まえた。
レオナルドも、もう逃げようとはしない。
わずかなためらいの後、フィアナの顔を覗き込むように顔を寄せて来た。
「フィン、どこか怪我をしているのか?」
「ちょっとアザがあるだけ。ちゃんと手当てしてもらったから大丈夫」
「そうか」
ほっと息をつくレオナルド。手を貸してもらって体勢を整えながら、フィアナは食い入るように彼を見つめた。
金髪はのびているが、首の後ろで強く結んでまとめている。
癖が強く波打つ金髪は、豪華にレオナルドの綺麗な顔を縁取って、とても華やかな感じだったのに、今は輝きが抑えられていた。
頬が痩せ、眉間に皺が刻まれ、レオナルドは精悍になり、少し老けたようにも感じる。
以前と同じように真っすぐにフィアナを見つめる青い瞳にも、深い苦悩が刻まれているようだった。
「どうしてここが?」
「あの広場に現れた騎士たちを追って来た」
ジェットとニコラスのことだろう。
「フィン、一人なのか? ロッシュはどうした? 何があった?」
声は抑えつつも、レオナルドは心配なのを隠しきれず畳みかけるように聞いてきた。
「や、屋敷が襲われて、眠り香でみんな眠らされてしまったの。ロッシュは私を逃がそうとして怪我をしてしまって」
「フィンは地下通路を使って逃げたのか?」
「そうよ、レオが準備してくれていた通路から逃げて、お隣で馬と護衛をつけてもらって、それでシャンテ様に国境まで送ってもらったの」
「……シャンテ?」
思いがけない名前を聞いたからだろう、レオナルドは息をのみ驚きに目を見張った。
「シャンテって、父の仕事を手伝っていた、あのシャンテ?」
「ええ、レオのこともよく知っていたわ。私を匿ってくれたの」
「そうか……」
レオナルドにとってシャンテは頼れる人なのかもしれない。驚きつつも安堵したようだった。
「シャンテの名を聞くなんて、何年ぶりだろう。とんでもないところで縁があるものだ」
「私を匿ってくれて、色々と調べてくれて、すごくお世話になったの」
「彼はとても情報通だからね」
「でも、ロッシュが無事かどうかはわからなくて。シャンテ様は大丈夫だって確信していたんだけれど、心配で」
「即死の傷でなければ無事だよ。屋敷には効きのいいポーションがあるからね。大丈夫だよ、フィン」
レオナルドがそう言うのなら大丈夫。心配事が一つ減って、フィアナの緊張が少しだけゆるむ。
笑みを浮かべたフィアナをじっと見つめるレオナルドの口元も、わずかだが緩んだように思えた。
「フィン、久しぶりだ」
「レオ……」
ぶわりと視界が涙で歪む。
レオナルドを久しぶりに感じて、最初に湧き上がってきたのは、愛おしさだった。
愛している、失いたくない、ずっとそばにいたい。そんな熱い想いが心の奥から湧き上がってくる。
このまま十か月の間にあったことなどすべて忘れて、レオナルドに抱き着きたかった。
別離も黄色のヴェネラも予知も、殺されそうになったことも、すべてなかったことにして、ただ再会を喜びたいと、フィアナは思ってしまった。
だが、フィアナを見つめるレオナルドの目から苦悩は消えず、抱きしめようと腕をのばしてくることもない。
それどころか、悲壮な顔つきで頭を下げられた。
「こんなことになって、本当にすまない」
現実に向き合わなければ。
怖いけれど、ちゃんと知らなければならない。
フィアナは涙をこらえ、勇気をかき集めた。
「何に対して謝っているの? 他に好きな女性ができたから?」
「まさか、違う」
「昨日、その、見たよ。女の人といるところ」
「!」
本気でレオナルドは驚いていた。
愕然として、そして怒りを見せた。
「あれは、今お世話になっている道場の娘だ。勝手についてきて、俺もすごく迷惑だったんだ。彼女の弟が迎えに来て、もう帝国に帰ったよ。フィンに誤解させて、悲しませてごめん」
怒りは、勝手についてきたという娘に向かっているらしい。
結婚前、レオナルドに相応しくないとフィアナに悪口を言う女性に対し、レオナルドの態度は怒りに満ちていて冷ややかだった。
一番大切に想っている人を悪く言われて怒らないほうがおかしいと、レオナルドはいつも全力で怒り、女性相手でも容赦がなかった。
今のレオナルドは、その時と同じ顔をしている。
もしかしたら本当にあの女性とはそういう関係ではないのかもしれないと思えた。
「フィン、離れていた間も、俺はずっと君のことだけ想っていた。本当だ。信じてほしい」
そう言ってフィアナを見つめるレオナルドの目に、ようやく熱がこもる。
フィアナのよく知る、愛しているという気持ちのこもった目だ。
「会いたかった。ごめん、俺から離れたのに、言う権利はないとわかっているんだが、……でもそれでも、会いたくて死にそうだったよ」
嬉しいと思い、目の奥が熱くなる。
私もだと応え、このまま抱き着きたいけれど。
フィアナは涙を手でぬぐい、きゅっと口を引き結んで、気持ちを立て直す。
「レオ、私、クラリッサ様に会ったの。お父様の予知能力のことを聞いたわ。私は結婚して一年目に死んでしまうのね。それなのにどうして、私と結婚したの?」
レオナルドは本気で驚いていた。驚愕という表情で、フィアナを凝視する。
「フィン……、すまない。でもどうして……なぜ姉上が予知の内容を」
本当にかなりのショックだったようで、レオナルドの手はぶるぶると震えだす。
震える手を額にあて、落ち着こうとしているのだろう、何度も深い呼吸を繰り返した。
「クラリッサは知らないはずだ。なぜ知っている」
「そうなの?」
「クラリッサはなんて? どういう予知だと言っていた?」
怒っているような、鋭い口調で、レオナルドが迫ってくる。
こんな展開を予想していなかったフィアナは、戸惑いながらも、クラリッサとの会話に必死に思い出した。
「えっと、私は結婚一年以内に死ぬ。黄色のヴェネラはあなたのものになり、王女様と再婚する」
「それで?」
「それで? えっと、それで、クラリッサ様はあなたが遺産目当てで結婚したんだって。だから、一刻も早く離婚しろって。とりあえず遺書を書いて、遺産をあなた以外の人に遺すようにするべきだって、とても慌てていて怒っていたわ」
「……」
「国王陛下がクラリッサ様の話を知って、私が遺言書を書いたり離婚する前に、殺してしまおうと屋敷を襲わせたみたい」
レオナルドはじっとフィアナの顔を見ている。
それで話は終わりかと聞かれているように感じたので、フィアナは小さく頷いて見せた。
すると、レオナルドはなんだかほっとしたように、小さく息をついた。
「フィン。俺がその予言を知ったのは、結婚した後だ。一緒に領地の母に挨拶に行った、最初の日の夜。俺は父の遺した予言書を初めて開き、俺たちの結婚が一年しかもたないと知った。あの日から俺が考えているのは、どうやったらフィンと共に幸せに老いていけるかということだけだ」
「本当に?」
「考えてみてくれ。俺が求婚した時、フィンはまだ黄色のヴェネラを咲かせていなかっただろ?」
結婚前、フィアナには狙われるような財産はなかった。
それは間違いない。
「咲かせることを予知で知っていたんじゃない?」
「そんな予知はない」
「証明なんてできないよね」
「特殊能力者に関する予知は難しいんだ。父はフィンの未来をほとんど予知できていない」
「でも、一年以内に死ぬって予知してるんでしょ?」
「フィンが死ぬことを予知したのではなく、俺が寡夫になることを予知したんだ」
筋が通っている説明で、フィアナは納得しそうになる。
だが、最大の疑問にはまだ答えてもらっていない。
「それなら、予知を知って、なぜ私を置いて帝国に行ってしまったの? 死ぬかもしれないのに、教えてくれなかったのはひどいよ」
「すまない、フィン」
「どうして教えてくれなかったの? 一人にしたの?」
「……予知のことは、話したくなかったんだ」
特殊能力のことは誰だって簡単には話さない。
だが、死ぬという予知だ。逆の立場だったら、フィアナはレオナルドを救うためならなんでもした。
離婚してレオナルドが生き延びられるなら、ためらわなかっただろう。
「私が死んでもよかったの?」
「そんなわけがないだろう」
「王女様と再婚したいから?」
「違う。絶対に違う。むしろ、君がそう言うだろうと思ったから、俺は言いたくなかった」
「離婚すれば、私は生き延びられるんでしょう?」
「……それは、わからない」
ぼそりとつぶやくように答え、レオナルドは表情を隠すように俯いてしまう。
嘘なのではと、疑ってしまう態度だった。
これまでレオナルドに嘘をつかれたことはないと思っていた。
いつも誠実でフィアナに真正面から向き合ってくれたし、十分過ぎるほどに言葉をくれて、安心させようとしてくれた。
だが今、レオナルドは嘘をついているように見える。
もしかしたら、フィアナが気づけなかっただけで、これまでも嘘をついていたのかもしれない。
レオナルドに対する信頼が急速に失われていくのに、フィアナは小さく震えた。
「レオ、どうして出て行ったの?」
「……」
「私と結婚したことを後悔したの?」
はっとなったレオナルドが顔を上げる。
フィアナには、図星を突かれたからのように見えた。
「フィン、違う」
「一年待てば、死別できるから、だから私を放っておくの?」
「違う」
「レオは、私が死ぬのを待っているの?」
「違うっ」
声は抑えていたが、かなり強い口調で否定された。
だが、否定するだけ。言い訳も説明もない。
子供にだって、今のレオナルドが隠し事をしているのはわかるだろう。
もう限界だと思えた。
フィアナが死ぬことをわかっていて姿を消し、その理由を一言も説明しないなんて。
レオナルドだけを見つめ、彼の言葉だけを信じ、彼を想いながら待つだけなんて、もうできない。
レオナルドという人がわからない。本当に愛されていたのかも、自信がなくなってしまった。
(やっぱり私、何か勘違いしていたのかも)
孤児で平民で美人でもないフィアナが、レオナルドのような人に愛されるわけがないのだ。
レオナルドに愛されていると信じ込もうとしていたフィアナの姿は、とても愚かで滑稽だっただろう。
だから周囲の人々はフィアナを嘲笑い、レオナルドのそばから排除しようと意地悪をしたのだ。
なんて情けなくて、みっともない。すごく恥ずかしい。
「フィン。あと二か月、待ってほしい。いや、一か月でいい。あと少しだけ」
フィアナは力なく首を横に振る。
思いあがって勘違いしていた自分が恥ずかしく、消えてなくなりたかった。
「レオが欲しいなら、黄色のヴェネラは全部あげたのに。死別を待つなんて……」
「フィン! 違う、俺は」
レオナルドが声を荒げた時、天幕の外に人の気配が近づいた。
「フィアナ? 声が聞こえたようだけど、起きているの?」
ジェットの声だった。
はっと、レオナルドが息をのむ。
慌てるフィアナの視線を捕え、落ち着くように目で訴えると、フィアナの耳元に口を寄せた。
「彼は信用できる。守ってもらえ」
早口にレオナルドが囁く。
「フィン、クラウ・ソラスになれたとき、すべてを話す。どうかそれまで……」
信じて待っていてほしいと、レオナルドは言いたかったのかもしれない。だが、ぎゅっと唇を噛むように、言葉を飲み込んだ。
ただ、気持ちが溢れて自分を抑えられないという熱い目でフィアナを見つめ、そっと手がフィアナの頬に伸びてくる。
「愛してる」
指先が頬に触れ、唇にも触れる。
そして、フィアナの唇に触れた指先を、レオナルドは自分の唇に押し当てた。
指先を介したキス。フィアナは頬を薔薇色に染めた。
「フィアナ? 入るよ?」
ジェットの声。
レオナルドは素早い動きで天幕の入り口とは反対側に移動すると、分厚い布地をまくり上げ、姿を消してしまった。
「フィアナ? 起きていたんだね。大丈夫?」
入り口の幕が上がり、ジェットが顔を見せる。
にっこりとしているが、目は鋭く天幕の中を確認していた。
「……申し訳ありません。夢を見て、うなされてしまったみたいで」
フィアナの返答はしどろもどろと言った感じだったが、逆にそれが寝起きらしく見えて、不審に思われなかった。
「追いかけられる夢でも見た?」
「夫の、夢を……」
フィアナは毛布を引き寄せ、顔を隠す。
心臓がバクバクしている。きっと顔は真っ赤だし、涙もまたあふれてきた。
(愛してるなんて、……ずるい)
レオナルドがわからない、信じられないと理性は主張するのに、それとは違うところが、レオナルドが大好きでたまらないと大騒ぎをしてしまっている。
「フィアナ、顔が赤いけど、もしかして発熱したかな」
ジェットの大きな手が額に触れる。
レオナルド以外の男性の手に、フィアナはほとんど反射的にびくりとすくんでしまった。
「ごめんね、でも、熱があるよ。水を飲めそう?」
「は、はい」
水の入ったコップを差し出され、フィアナはおとなしく飲み干す。
ジェットに促されて横になると、毛布を抱え、フィアナは小さく丸くなった。
(レオ……)
レオナルドを想いながら目を閉ざす。
フィアナは深い眠りの中へと落ちていった。
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