(2)
ロッシュがフィアナのそばを離れて伯爵領に戻ったのは、両親から不穏な知らせが届いたからだ。
伯爵家で長く前伯爵夫人マリエッタ付のメイドをしている母親と、伯爵家の庭師をしている父親に、レオナルドや妻のフィアナに関して、伯爵家で何か動きがあれば知らせてほしいと、ロッシュは頼んでいた。
手紙には詳しく書けないが前伯爵夫人の様子がおかしいという知らせが届き、フィアナの周囲が落ち着いてきたということもあり、ロッシュは一週間の休暇を貰った。
王都からレオナルドの実家であるハーヴェイ伯爵領までは、馬を替えながら大急ぎで走っても、二日。ロッシュはその最短の二日で実家へ駆け戻った。
到着は昼前で、着の身着のまま爆走してきたロッシュはまず風呂を使い、母親の用意してくれた大量の昼食をせっせとお腹に収めた。
なにしろ、道中はゆっくり食事をする時間も惜しんだので、馬を替えるときに携帯食をつまんだりするぐらい。まともな食事は二日ぶりだった。
「それで、聞かせてよ。奥様の様子がおかしいって、どういうことなんだい?」
食事を終えて片づけられた食卓を、ロッシュと母親、そして父親の三人が囲む。
「奥様は、多分、ご病気だと思うのよ……」
母親は声をひそめ、とても悲しそうに囁いた。
「物忘れがひどいとは、しばらく前から思っていたのだけれど、最近、とてもぼうっとしているの。お食事をされたことも覚えていなくて、一日に何度も食事をされることもあれば、ふいっと一人で出かけてしまわれることもあって」
「あの時は、城の者が総出で奥様をお探しした」
腕を組んだ父が、やはり厳しい表情でそうつぶやく。
「奥様、まだ五十代だよね」
驚くロッシュに、両親は黙ったまま深く頷く。
七十、八十まで長生きすると、痴ほうの症状がでる老人はいる。物忘れがひどくなったり、家に帰れなくなったり、日常生活が難しくなる。
だが前伯爵夫人マリエッタは、まだ五十代。
若い時は女騎士として馬に乗り剣を振り回していた、とても元気で健康的な女性だった。
ロッシュは十か月前に会っているが、そんな症状は何もなかった。
「信じられないよ……」
「気持ちはわかるわ。なんともないときは、本当にいつもの元気な奥様なのよ。でもずっとおそばにいると、ぼうっとしている時間が長くなってきているのがわかるの。それでね、ロッシュ。あなたは前の伯爵様のことをどれぐらい覚えている?」
前の伯爵、レオナルドの父が亡くなった時、ロッシュは十三だった。
勿論、よく覚えている。だが、両親が聞きたいのは、前の伯爵との思い出などではないと、ロッシュはすぐに気が付いた。
「前の伯爵様の、予知能力のこと?」
「やっぱり、知っていたのね」
「レオはいつも俺に愚痴を言っていたからね。旦那様の予知どおりにならないように、レオに協力させられたこともあるよ」
「それでは、旦那様がレオナルド坊ちゃまのために、予言書を遺されたことを知っている?」
「……」
十か月前、ロッシュはそれをレオナルド本人から聞かされた。
だがその予言書のことについては、誰も知らないはず。予言書の存在については、絶対に秘密だと、レオナルドにしっかり口止めもされたのだ。
だが、知っているか聞いてくるということは、両親は存在を知っているということ。
驚き、探るように見てしまった息子に、両親は長い吐息をついた。
「奥様が話してしまっているの」
「それは……」
「予言書のことは秘密なのよね? あなたの顔を見ればわかるわ。きっと、奥様とレオナルド坊ちゃましか知らなかった秘密。私はほんの少し聞いてしまっただけだけど、レオナルド坊ちゃまの人生が書かれている予言書だなんて……旦那様はなんて恐ろしいものを」
ロッシュは深く頷く。
十か月前、レオナルドに初めて聞いた時、ロッシュもぞっとした。
そして、そんなものを押し付けられながらも、ごく普通に自分の人生を生きている幼馴染の強さに改めて驚嘆した。
「奥様はご病気のせいで、予言書のことを秘密にしておかなければならないってことを、忘れてしまっているんだね?」
「一言で言えばそう。最近の奥様は、ふわふわとして幻想の国で生きておられるのではないかと思う時があるわ」
「そうだな」
実感のこもった父の頷きに、前伯爵夫人の状態はかなり深刻なのだと、ロッシュは危機感を持った。
「それでね、ロッシュ。この前、奥様がレオナルドの坊ちゃまとフィアナ様の結婚について、クラリッサ様にとんでもないことをお話しになったのよ」
クラリッサはレオナルドの姉で、爵位をついで母親と同居をしている。
「クラリッサ様が、レオナルド坊ちゃまが結婚してすぐに新居を出られ、何をしているのか一年近くも不在にしているのが心配だと話されたら、奥様が、あの二人は死別するから大丈夫よとおっしゃられたの」
話しながら、母は恐ろしいと言わんばかりに、首を横に振る。
「クラリッサ様が驚かれて、どういうことかと聞かれたわ。すると奥様は、旦那様がそう予言しているって。結婚から一年以内にフィアナ様は亡くなられ、遺産がレオナルド様のものになる。その遺産を王家が欲しがるので、レオナルド様は王家の王女様と再婚するのだと。クラリッサ様はとてもお怒りになられて、フィアナ様の命を救わなければとおっしゃって、それで王都に向かわれたの」
「王都に? いつ?」
「昨日の朝よ」
ロッシュは愕然とした。
今からではどう頑張っても、クラリッサより早く王都には戻れない。
それに、レオナルドの母の様子を確認しないというのはあり得ない。
予言書の存在をそこらじゅうで話されてしまう前に、黙ってもらうように手を打つ必要もある。
逸る気持ちをおさえ、ロッシュはすぐに伯爵邸を訪問することにした。
レオナルドの母で前伯爵夫人マリエッタは、元騎士らしく長身でがっちりとした体格をしていたのだが、この十か月の間に驚くほど痩せてしまっていた。
それでもロッシュに朗らかな笑顔を見せてくれて、以前と変わらない気さくな口調で話しかけてくれたのだが、その内容は以前と同じとはいかなかった。
「騎士学校はどう、ロッシュ。レオナルドも頑張っているかしら」
ロッシュは返答に詰まってしまう。
レオナルドと一緒に騎士学校に入学したのは、十四の時だ。
ちらりと母に視線を向ければ、小さく頷かれた。
「はい、頑張っています。レオナルド様の剣技は素晴らしく、教官も褒めていました」
「そう、よかったわ。あの子が旦那様の言いつけに逆らって、騎士になると言い出した時はどうしようかと思ったけれど。あの子が幸せなのが一番重要よねえ。王女様の婿だなんて、あの子には荷が重すぎるのよ」
「奥様」
近づいたロッシュの母が、そっと肩に手を置く。
すると前伯爵夫人は不自然なほどにさっと真顔になり、まるでロッシュがいることなど忘れてしまったように話すのをやめてしまった。
「お茶の時間です、奥様」
「そうね。お腹が空いたわ」
母がロッシュに目くばせをして、退室を促してきた。
ロッシュは前伯爵夫人に頭を下げて一礼すると、足早に部屋を出た。
「ロッシュ」
ぱたりと扉を閉ざすと、背後から声がかかる。
慌てて振り返ると、廊下には二人の男性がロッシュを待ち構えていた。




