第三十二話 士気は天を衝くも、兵力は地に沈む
明智勢の包囲が始まって四日目。
八上城の周囲には、黒い波のように兵が押し寄せ、
山々には太鼓と角笛の音が響き渡っていた。
波多野秀香は、城門前の柵の上に立ち、
戦況を見下ろしていた。
「……よく持ちこたえている」
その言葉は、
自軍を鼓舞するというより、
現実を静かに受け止める響きを帯びていた。
家臣の一人が駆け寄る。
「秀香様!
北の柵、明智勢の攻めが激しゅうございます!
しかし、兵たちは皆、踏みとどまっております!」
秀香はうなずいた。
「皆、よく戦っている。
秀治兄上・秀尚兄上の御名に恥じぬ働きだ」
家臣は胸を張った。
「はい!
兵の士気は高うございます!
“秀治様の仇を討つ”と……
“秀尚様の御恩に報いる”と……
皆、命を惜しまず戦っております!」
その言葉に、秀香は胸が熱くなるのを感じた。
――兄上たちの死は、
確かに皆を動かしている。
だが同時に、
秀香は冷静に戦況を見つめていた。
「……兵の数は、いかほどだ」
家臣は顔を曇らせた。
「戦える者は……
城内合わせて四百ほどにございます」
「四百か」
秀香は遠くの山を見つめた。
その向こうには、
明智光秀の本隊が控えている。
「明智勢は、いかほどと見ている」
「三千……
いや、増援を含めれば四千は下りませぬ」
秀香は静かに息を吐いた。
十倍の兵力差。
家臣は声を震わせた。
「秀香様……
この兵力差では……
いかに士気が高くとも……」
秀香は家臣の言葉を遮らず、
ただ静かに聞いていた。
家臣は続けた。
「……持ちこたえるのは、難しいかと……」
秀香はゆっくりと口を開いた。
「分かっている。
だが、我らは“勝つため”に戦っているのではない」
家臣は息を呑んだ。
秀香は続けた。
「兄上たちの御名を汚さぬため。
八上の民を守るため。
そして……
波多野の誇りを示すためだ」
その言葉は、
兵たちの心に深く染み渡るような響きを持っていた。
「秀香様……
我ら、最後までお供いたします!」
「うむ。
皆の覚悟、確かに受け取った」
その時、北の柵の方角から怒号が響いた。
「敵、梯子を掛けてきたぞ!
弓兵、狙え!」
秀香は即座に指示を飛ばした。
「弓兵、矢倉から狙い撃て!
槍兵は柵の前で構えよ!
崩れるな、踏みとどまれ!」
「はっ!」
兵たちが一斉に動き出す。
明智勢の攻めは激しく、
柵は軋み、
土塁は揺れ、
兵たちの悲鳴が飛び交う。
だが――
八上城の兵は、
誰一人として退かなかった。
秀香はその姿を見つめ、
静かに呟いた。
「……皆、強い。
だが、この戦は……
長くは持たぬ」
その言葉は、
誰にも聞こえないほど小さかった。
しかしその瞳には、
揺るぎない覚悟が宿っていた。
――八上は落ちる。
だが、波多野の名は落とさぬ。
その決意だけが、
秀香の胸に燃えていた。




