第三十話 明智勢、八上へ迫る
波多野秀治・波多野秀尚の死から十日。
八上城の周囲には、再び不穏な気配が満ち始めていた。
その日の早朝――
見張り台から緊迫した声が響いた。
「南の谷に旗印!
明智勢、接近!」
城内が一気にざわめく。
家臣の一人が天守へ駆け込み、
波多野秀香の前で膝をついた。
「秀香様!
明智勢、三千ほどが八上へ向かっております!」
秀香は静かにうなずいた。
「……来たか」
家臣は続けた。
「先鋒は明智光秀の腹心、斎藤利三と見られます。
包囲の準備を始めている様子……」
秀香は天守の窓から外を見下ろした。
山の向こうに、
黒い波のように兵の列がうねっている。
「兄上たちを殺した以上、
明智が八上を残すはずがない。
これは……必然だ」
家臣が震える声で言った。
「秀香様……
我らは、持ちこたえられるのでしょうか」
秀香は振り返り、
家臣たちをまっすぐに見つめた。
「持ちこたえるのではない。
“守り抜く”のだ」
家臣たちは息を呑んだ。
秀香は続けた。
「八上は落ちるかもしれぬ。
だが、波多野の名は落とさぬ。
兄上たちの死を無駄にせぬためにも、
ここで退くことはできない」
その言葉に、
家臣たちの背筋が伸びた。
「秀香様……
ご命令を!」
秀香は迷いなく言った。
「全兵を持ち場につけ。
弓兵は矢倉へ、槍兵は柵の前へ。
城門は固く閉ざし、
誰一人として外へ出すな」
「はっ!」
「兵糧は少ない。
だが、分け合えば数日は持つ。
その間に、明智勢を迎え撃つ準備を整える」
家臣たちが散っていく中、
秀香はひとり天守に残った。
遠くから、
太鼓の音が山々に響き渡る。
明智勢の進軍の音だった。
秀香は静かに目を閉じた。
「秀治兄上……
秀尚兄上……
私は、ここで戦います」
その声は、
誰に聞かせるでもなく、
ただ空へと溶けていった。
やがて、
八上城の周囲に明智勢の旗が林立し始めた。
――八上城最後の戦いが、
静かに幕を開けようとしていた。




