第二十話 揺らぐ決断
光秀軍の包囲が狭まり、
八上城の内外は、静かに、しかし確実に追い詰められていた。
その日、秀治は城下を見回っていた。
「……兄上、あれを」
秀尚が指さした先には、
疲れ切った民たちの姿があった。
水汲み場へ向かう老人は足を引きずり、
子どもを抱いた母は、怯えた目で山の向こうを見つめている。
「お腹すいた……」
小さな声が、秀治の胸に突き刺さった。
兵たちもまた、疲労の色を隠せない。
「昨夜も眠れませんでした……」
「包囲が続けば、いずれ……」
秀治は拳を握りしめた。
「……皆、限界が近い」
秀尚も沈んだ声で言う。
「兄上。
このまま戦えば、民が……」
その時、秀香が現れた。
「兄上。
巡察、お疲れさまです」
秀治は振り返り、
どこか弱々しい笑みを浮かべた。
「秀香……
お前の言う通り、八上は疲れているな」
秀香は静かにうなずいた。
「はい。
ですが――まだ戦えます」
秀尚が苦い表情で言う。
「秀香……
お前は“戦える”と言うが、
民の顔を見たか?」
秀香は一瞬だけ目を伏せた。
「見ました。
だからこそ、光秀の包囲が完成する前に動くべきなのです」
秀治は首を振った。
「……動けば、犠牲が出る。
民が怯える。
それでは本末転倒だ」
秀香の胸に、冷たい痛みが走った。
――兄上は、もう戦う覚悟を失っている。
秀尚が続けた。
「兄上。
明智は、諸城を攻め落としたが、
降った者には領地を安堵している。
無闇に殺すような男ではない」
秀香は即座に言った。
「兄上、それは“表向き”です。
八上は明智にとって最後の砦。
簡単に許すはずがありません」
だが秀治は、静かに首を振った。
「……秀香。
私は、民を守りたい。
それが八上の主としての務めだ」
秀尚も同じ思いだった。
「兄上の言う通りだ。
民がこれ以上苦しむ前に……
別の道を探すべきかもしれない」
秀香は息を呑んだ。
「別の道……?」
秀治は、重い声で言った。
「――和睦だ」
評定の間ではなく、
城下の静かな一角で、
その言葉が初めて口にされた。
秀香の心臓が強く脈打つ。
「兄上……
和睦は、危険です」
「分かっている。
だが……
民をこれ以上苦しめるわけにはいかぬ」
秀尚も言った。
「秀香。
お前の策は正しい。
だが……
八上はもう、戦える状態ではない」
秀香は何も言えなかった。
兄たちの“優しさ”が、
八上を滅びへ導こうとしている。
――兄上たちは、民を守ろうとしている。
――だが、その道の先にあるのは……死だ。
秀香は静かに拳を握りしめた。
「……兄上。
どうか、もう一度だけ考えてください」
秀治は答えなかった。
その沈黙が、
八上の未来を暗く染めていった。




