第96話『側にいるから』
ストーブの上で、ヤカンが小さく鳴っていた。
カタカタ、と静かな音。
和室には、じんわりした暖かさが広がっている。
星羅は、布団の横に座っていた。
眠っている瑛太を、静かに見つめる。
少し赤い頬。
苦しそうな呼吸。
「……」
そっと布団を整える。
「う〜ん……」
小さな声が漏れた。
瑛太が、ゆっくり目を開ける。
「あー……星羅……」
ぼんやりした声。
「居てくれたんか……」
「ずっと居たべさよ」
星羅が、小さく笑った。
「何か飲むべか?」
「……うん、飲みたい……」
「経口水、買ってきたから」
星羅は立ち上がる。
「ちょっと待ってな、コップさ入れるから」
静かな部屋に、注ぐ音だけが響く。
「はい……」
「ありがとう……」
瑛太はコップを受け取ると、そのまま一気に飲み干した。
ごく、ごく、ごくっ。
「……ぷはぁ」
「もう一杯もらえる?」
星羅が少し眉を下げる。
「瑛太、一気に飲んだらだめだべ」
「ゆっくり身体に馴染ませるように飲むんだべさ」
幼い子を諭すみたいな声だった。
そう言いながら、もう一度コップへ注ぐ。
「はい」
今度は、瑛太もゆっくり飲んだ。
少しずつ。
喉を通していく。
「……えらいべ」
星羅が、くすっと笑う。
そのまま背中へ手を伸ばした。
「……あっ」
服が汗でびっしょりだった。
「瑛太、汗かいたなぁ」
星羅は部屋の隅の袋を持ってくる。
「下着の着替えも買ってきたから、着替えて」
「パジャマは、お兄ちゃんのだけど」
「えっ?」
瑛太が少し驚いた顔をする。
「……でも、下着のサイズは?」
「あっ……」
星羅が固まった。
「ご、ごめんなさい」
「お父さんに、瑛太の荷物から下着のサイズ見てもらったべさ……」
「ごめんなさい……」
「いやいや!」
瑛太が慌てて首を振る。
「謝らんでええって」
「逆にありがとう……ほんまに」
弱々しい笑顔。
「ありがとうやで、星羅」
「……っ」
星羅は、自分の顔が熱くなるのを感じた。
(なんで今更、瑛太の顔見て赤くなるんだべ、私……)
「と、とりあえず!」
慌てて立ち上がる。
「着替えとタオル置いておくから!」
「ちゃんと汗さ拭いて着替えるべさよ!」
「わかった」
「私は廊下にいるから!」
「何かあったら声かけて!」
ぱたぱたと和室を出ていく。
襖が閉まる。
和室には、ストーブの音だけが残った。
瑛太は、ゆっくり身体を起こす。
パジャマを脱ぐ。
タオルを持つ。
でも。
「……あかん」
力が入らない。
背中へ手が届かない。
「星羅〜?」
『居るべさよ〜』
襖の向こうから、すぐ声が返ってくる。
『どうしたべ?』
「いや、ごめんやけど……」
「背中の汗拭きたいねんけど、力入らんくて……」
「ちょっと拭いてくれへん?」
『う……うん……』
襖の向こうで、星羅がそっと手を掛ける。
その時。
ど!ど!ど!ど!ど!!
「やあ、瑛太君!」
勢いよく現れたのは、星羅の父だった。
「何かお困りかな!?」
「お父さん!?」
星羅が飛び上がる。
「何々? 背中の汗が拭けない?」
「よし!」
「お父さんがしっかり拭いてあげよう!」
襖を開けて、ずかずか入っていく。
「ちょっ……お父さん!」
「うわっ、お、お父さん!?」
瑛太も目を丸くする。
その時、再び廊下が響いた。
ど!ど!ど!ど!ど!!
「あ・な・た!!」
今度は、星羅の母だった。
「えっ、お母さんまで!?」
「星羅」
母――希美が、にっこり笑う。
「瑛太さんの背中、拭いてあげて」
「ほら、あんた行くよ」
「だってワシの星羅が……」
「はいはい」
希美は小さな身体で、夫・謙二郎をずるずる引きずっていく。
襖が閉まった。
静寂。
「……」
「……」
「……ヘックション」
瑛太のくしゃみだけが響く。
星羅が、小さく吹き出した。
「ごめん、瑛太」
「今拭くね」
「ありがとう、星羅」
星羅は、そっとタオルを背中へ当てた。
汗を拭く。
ゆっくり。
優しく。
「……」
そのまま、瑛太がぽつりと呟く。
「俺、オヤジ小さい時に亡くしたから」
星羅の手が止まる。
「親父さんが新鮮でさ」
「さっき、ちょっと拭いてもらったん……少し嬉しかったかな」
困ったような。
でも、どこか嬉しそうな笑顔。
「……そうだったんだ」
「うん」
瑛太は少しだけ天井を見上げた。
「何か……」
「温かい家族の一員になれたみたいで」
「凄く嬉しかった」
ストーブの火が、小さく揺れる。
ヤカンの音。
外の風。
星羅は何も言わなかった。
ただ。
瑛太の背中へ触れる手だけが、少し優しくなる。
「……ほら」
星羅が静かにシャツを渡す。
「後は出来る?」
「おう」
「じゃあ、着替えたら呼んでね」
「私、そこにいるから」
襖が閉まる。
数分後。
「着替えたよ〜」
声が聞こえる。
星羅は静かに襖を開けた。
そして。
そのまま、瑛太を抱きしめた。
「せ、星羅……?」
「……ひとりで頑張ってたんだね」
小さな声。
瑛太は、少しだけ目を丸くした。
「……うん」
星羅は何も言わない。
ただ、抱きしめる腕だけが少し強くなる。
瑛太は、そっと目を閉じた。
「ありがとう、星羅」
「俺にはオカンと妹おるけど」
「……星羅がおると、安心するわ」
「うん、一緒にいるよ……」
「……って」
星羅が、ゆっくり顔を上げる。
「……瑛太って妹いるの?」
「えっ」
「私、末っ子だから妹憧れるんだ」
「かわいい?」
「何歳?」
「……二十歳」
「会いたい! 会いたい!」
「私も瑛太の家族と会いたい!」
「今度、大阪営業の時に会わせてよ! ねっ、ねっ?」
目がきらきらしている。
瑛太は、ぽかんとした。
「いや、ええけど……」
「星羅、むっちゃ俺の家族に食いつくやん」
思わず、ふふっと笑う。
「あかん……」
瑛太が額を押さえた。
「熱上がったかも……」
「……ごめんだべ」
星羅がしゅんとする。
「……でも、ありがとうやで」
「瑛太ぁ……」
また抱きつく。
「ちょ、あかんて!」
「風邪うつるから!」
「看病した方が風邪引いたらしゃれならんやろ!」
「……もう少し、このまま」
小さな声。
瑛太は、言葉に詰まった。
「……わかったから」
「ちょ、正面から抱きつくな!」
「当たってるって!」
「……ふふっ」
星羅が笑う。
その笑い声に。
瑛太は、真っ赤になりながら布団へ顔をうずめた。
熱のせいか。
それとも別の理由か。
胸が、ずっとあったかかった。




