第95話『麦の香り』
車が、雪の残る道をゆっくり走っていた。
窓の外。
白い景色。
朝の薄い陽射し。
助手席で、瑠美は静かに外を見ていた。
「北海道の道って、広いね」
「んだなぁ」
ハンドルを握りながら、蓮が笑う。
「冬は怖いけどな」
「でも、運転うまい」
「慣れだべさ」
少し照れたみたいに笑う横顔。
瑠美は、その顔をなんとなく見ていた。
昨日。
夜遅くまで話した。
酔って。
笑って。
気づけば、時間を忘れていた。
でも。
今こうして隣にいる蓮は、
昨日とは少し違って見えた。
穏やかなのに、
どこか真面目で。
静かに前を見ている。
「……着いたべ」
車が、ゆっくり止まる。
瑠美は窓の外を見た。
雪の中に建つ、
少し古い倉庫みたいな建物。
白い壁。
小さな看板。
煙突から、薄く白い煙。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
蓮が、少しだけ笑った。
「小さい工場だけどね」
「ううん」
瑠美は、首を横に振る。
「なんか、好き」
二人は車を降りた。
外気が冷たい。
「寒っ」
「ははっ、北海道なめたらあかんべ」
「蓮、今ちょっと関西弁混ざった」
「瑛太のが、うつったんだべ」
笑いながら、扉を開ける。
その瞬間。
ふわっと、甘い匂いが広がった。
「……え」
瑠美が立ち止まる。
パンみたいな。
麦みたいな。
あたたかい香り。
工場の奥では、
低いモーター音が響いていた。
銀色の大きなタンク。
配管。
立ちのぼる蒸気。
「……思ったより、本格的ですね」
「遊びじゃないんで」
蓮が笑う。
でも。
その顔は、少しだけ誇らしそうだった。
「蓮さん、おはようございまーす!」
奥から声が飛んできた。
振り向くと、
長靴姿の男性が手を振っていた。
「あ、おはようございます」
「彼女さんですか?」
「ぶっ……!」
瑠美がむせる。
蓮も固まった。
「いや、ち、違っ……!」
「違うんですか?」
「えっと……その……」
二人とも妙に歯切れが悪い。
数秒。
「……まぁ、いい感じではあるべ」
蓮が小さく頭を掻いた。
「おぉ〜!」
「蓮さん顔赤いっすよ!」
「うるさいべ!」
工場の奥から笑い声が広がる。
瑠美は、思わず吹き出した。
「あははっ」
その笑い声に。
蓮も、少しだけ安心したみたいに笑った。
「ごめんね、騒がしくて」
「ううん」
瑠美は、ゆっくり辺りを見回した。
タンク。
蒸気。
温度計。
並ぶ瓶。
全部、
ちゃんと“仕事場”だった。
「……蓮」
「ん?」
「ここ、好きなんだね」
その言葉に。
蓮は少しだけ目を丸くした。
それから、静かに工場を見渡す。
「……うん」
短い返事。
でも。
その声は、とてもやさしかった。
「最初はね」
蓮が、ゆっくり話し始める。
「小さい趣味みたいなもんだったんだ」
「でも、気づいたら」
銀色のタンクへ視線を向ける。
「人生になってた」
瑠美は、何も言わなかった。
ただ。
その横顔を見ていた。
人って、本気で好きなものを見てる時。
こんな目をするんだ。
そう思った。
星羅とも。
瑛太とも違う。
でも。
どこか似ている。
夢を追ってる人の目だった。
「蓮さん!」
工場の奥から、
また声が飛んできた。
「丁度良かった、ちょっとテイスティングお願いできませんか?」
「おう、今行くべ」
蓮が振り返る。
「瑠美ちゃん、一緒に行く?」
「いいの?」
瑠美の目が、ぱっと輝いた。
「もちろん」
二人は、工場の一角にある小さな事務所へ向かった。
机。
書類。
壁に貼られたラベル案。
その奥で、作業員が透明のコップを差し出す。
「蓮さん、お願いします」
「おう」
蓮はコップを受け取ると、まず光へかざした。
琥珀色。
泡。
ゆっくり角度を変えながら確認していく。
瑠美は、思わず見入っていた。
(……真剣な顔)
次に。
蓮は静かにビールを口へ含む。
少しだけ目を閉じた。
香り。
温度。
余韻。
何かを確かめるみたいに。
数秒後。
「……オッケーだべ」
作業員が、ほっとした顔になる。
「わかりました、ありがとうございます!」
そのまま、慌ただしく持ち場へ戻っていった。
静かな事務所。
蓮が、瑠美へコップを差し出す。
「瑠美ちゃん、飲んでみる?」
「うん」
瑠美はコップを受け取った。
ほんのり琥珀色。
小さな泡。
さっきまで、蓮が真剣な顔で見ていたもの。
ごくっ。
数秒。
「……苦い」
蓮が吹き出した。
「あははっ、初手それかい」
「だって、普段こんなの飲まないもん」
「それ、大人の味ってやつだべ」
「十分大人なんだけどなぁ、私」
瑠美は少し口を尖らせながら、もう一口だけ飲んだ。
「あれ……?」
「ん?」
「ちょっと美味しいかも」
蓮が、少し嬉しそうに笑った。
「だべ?」
麦の香り。
低い機械音。
雪国の小さな工場。
その真ん中で。
瑠美は、
蓮の“好きなもの”を、
少しずつ知っていった。




